ANTIQUE JAPANESE RADIO/日本の古いラジオ

History of Tube Radios/真空管ラジオの歴史

-Japanese Five Tube Radio/日本の5球スーパ-

(1998.4.11)+(1998.5.30)+(2000.5.26)
2nd Ed. (2002.11.10)
HomePageRadio/radio_hist_5_tube_Super.html

written by Koji HAYASHI, Ibaraki JAPAN


Contents/目次

Japanese Standard Radio after WWII is the five tube super which is a superheterodyne type five tube radio. Let us review here the history of Japanese radios for public people like the standard type and the popular type radios.

日本の戦後の標準ラジオと言えば5球スーパーです。「5球スーパー」とは,5球で構成したスーパー・ヘテロダイン方式のラジオのことです。「標準型」とか「普及型」などと呼ばれた月並なラジオの歴史を辿ります。

1. Begining period of radio broadcastings/ラジオ放送開始時代

2. Ages of AC radios and multi-grid tubes/交流ラジオ・多極管時代

3. Ages of 2A7/6A7 /2A7/6A7の時代

4. Metal tube ages/メタル管時代

5. Battery miniature tubes and Roktal/電池用MT管とロクタル管

6. Transformerless tube/レス管(幻の放送局型124号?)

7. Five tube super in post war period/戦後復興期の5球スーパ

8. Five tube super in Golden period after WWII/戦後黄金期の5球スーパ

9. Battery tube portable/電池管式ポータブル [New 2000.6.15]

10. Miniature tube and transformerless radio/ミニアチュア管とトランスレスの時代 [New 2000.6.15]

11. Two band radio with short wave/短波付き2バンドラジオ [New 2000.6.15]

12. Hi-Fi radio and stereo broadcastings/Hi-Fiラジオとステレオ放送 [New 2000.6.15]

13. FM ages/FM時代 [New 2000.6.15]

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1. Begining Period of Radio Broadcastings/

ラジオ放送開始時代

Early Time American Products/初期の米国製品

スーパー・ヘテロダイン方式とは,受信した信号をそれより低い周波数に変換してから増幅する方式で,感度や選択度(混信)を容易に改善できる利点があります。

米国のRCAにいたE.H.Armstrong/アームストロング氏が1918年(大正7年)に発明し特許を取得しました。彼は再生検波方式も発明した人です。米国のラジオ放送は1920年(大正9年)に始りましたが,当時は,今日の分類でいうとヴィンテージ・ラジオ時代で,真空管は3極管のみ,電源はバッテリー,スピーカは電磁式のホーン型(ラッパ)でした。3極管しかありませんから高周波増幅回路は入出力が結合しやすく,中和で正帰還をキャンセルしたり,入出力の同調をわざとずらして結合を弱めるなど,苦労する時代でした。ラジオの主流は増幅器を多段に並べたTRF(同調高周波増幅)型でした。そんな中で,世界初のスーパ・ヘテロダイン方式のラジオは,放送開始からやや遅れて1924年(大正13年)にRCAから発売されました。それがRadiola Super/ラジオラ・スーパです。このラジオラ・スーパは6球式の卓上型で,真空管は省電力型の電池管UV199一種類ですが,回路構成は

[RCA Radiola Super 1924年]

RF(中和)-Conv-(IF42kc)-IF(中和)-DET(plate)-AF-PO

と本格的で,出力は僅か8mWですが,付属の室内小型ループ・アンテナでホーン型ラウド・スピーカを十分に鳴らすことができました。シャーシ(部品取り付け台)は比較的小型ですが,直流時代ですから電池が必要で,横長の大きな四角い箱を3つに区切り,中央には正面パネルのシャーシ部が,左右には電池室が配置されていました。

さらに,翌年の1925年(大正14年)には,RCAは2つのスーパを発売しました。1つはスーツ・ケース程度の大きさのポータブル型のRadiola 24/ラジオラ24型(GE製),他はどちらかというとコンソールと言えそうなポータブル兼卓上型のRadiola 26型(WH製)型で,回路構成は前年のラジオラと同じですが,便利に改良されており,ともにホーン型ラウド・スピーカを内蔵し,蓋の部分に小型ループ・アンテナも収納できるようになっていました。

Dificulties of Superhetrodyne Type/スーパ形式の難しさ

周波数が低いと同調回路の選択度や増幅度も向上できるし,中間周波数を常に一定にしておけば増幅部の同調操作も不要です。ただし,原理的にイメージ混信が避けられないので,無闇に中間周波数は下げられないし,受信周波数段でも有る程度の選択度が要求されます。

この時代のスーパは,3極管による高調波利用の自励変換と低い中間周波数(30-80kc, RCAは42kc)が特徴で,欠点が目につきます。

(1)この時代の球(UV199, UV201A)はgm(μ)が低く,さらにRF,IFでは中和あるいは疎結合を要す。増幅段を増やすとコスト高になる

(2)IFの選択度を良くするとイメージ抑圧比が悪くなり,音声帯域も狭くなるから良い音がしない。

(3)3極管自励変換回路の不安定性

IFは,選択度の点では断然低い周波数が有利ですが,TRF型ラジオと同様にRF段を強化しないとイメージ混信は避けられません。IFを450kHz程度にすればRF段は省略可能ですが,今度はIFTの選択度確保が空芯コイルとトリマ・コンデンサでは難しくなります。当時すでにIFTはコア入りの小型のものが市販されていたそうですがIFは数10kcでした。

局発の安定性の問題も未解決でした。3極管自励変換回路は不安定です。当時の性能の悪い真空管では,広い放送帯をカバーさせると局発の出力レベルが高周波側と低周波側で落差を生じ感度差が大きくなるとともに,低周波数側で発振が停止する危険性が高くなります。また,3極管ミキサは引き込み現象が強く,近接周波数に強力な放送局があると不安定になります。この解決のためか,局発は低い周波数で発振させその2倍の高調波を混合に利用する方法を取りました。こうすると発振レベルが平坦化でき,カバー範囲も広くなり,引き込み現象も緩和されます。ただし,高調波利用ではギャング・バリコンを用いた単一同調は不可能になり,また発振出力も基本波に比べて弱いので変換ゲインは良くありません。

このように,初期のスーパラジオは苦労が伴いますので,通常のTRFと比べてどちらが優れているが一概に判断できません。基本性能とコスト・特許料支払とを秤にかけると他社が参入するメリットは余り無く,主流にはなりませんでした。普及のためには,高性能の中間周波トランスや周波数変換が安定に行える真空管の開発とともに,特許の公開が必要だったのです。

Superhetrodyne Receiver's Debut in Japan/スーパー受信機の日本での登場

日本では1925年(大正14年)にラジオ放送が始まりましたが,その前年の1924年(大正13年)には,米国RCAから世界初のスーパー受信機の製品として,卓上型6球式のRadiola Super/ラジオラ・スーパが発売されていました。このラジオは我が国には同じ年に三井物産により5台輸入されたそうです。

Shibaura Works(Toshiba)/芝浦製作所(東京電気と合併して現東芝)は,米国GEと提携し放送開始当時には国内用にアレンジした幾つかのラジオ受信機を設計製作し,販売しました。RCAの球を使用した4球式高1再生ラジオJunola IV A/ジュノラIV A受信機が有名ですが,また同社はRCAのモデルの輸入販売も行いました。

また,米国ではスーパー受信機用部品,特に中間周波トランスなど,の製造販売が始まっており,国内では幾つかのラジオ店,たとえば,銀水堂(現在のラックス)は輸入部品や回路図などを販売していたそうです。果たしてどれだけのスーパラジオが国内で作られたでしょうか。

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2. AC Radio and Multi-grid Tube Ages/

交流ラジオ・多極管時代

放送が始った1926年(大正15年, 昭和元年)は多極管が発明された年でもあります。米国では翌年の1927年(昭和2年)に,UX-201Aのフィラメント電圧を低電圧化しハムを抑えた直熱管UX-226とさらに傍熱化した3極管UY-227が開発され,交流ラジオ時代を迎えました。さらに初のスクリーン・グリッド型直熱4極管UX-222も開発,翌年の1928年(昭和3年)には発売され,いよいよ多極管時代を迎えることになりました。同じ年には傍熱4極管UY-224も開発され,ヴィンテージ・ラジオ時代に終止符が打たれました。

同年には交流式のラジオのラジオラ17型が登場しましたが,スーパ・ヘテロダインの周波数変換にも多極管がさっそく利用されました。その代表は224を用いた自励コンバータでしょう。スクリーン・グリッド管は2つのプレートを持つ球ですから,片方を発振器にし,他方を混合器として働かせれば,管内で電子流的にミキシングする結合調整の不要な自励コンバータができあがります。変換ゲイン,引き込み現象の点では大分改善されたと見えます。

有名な米国のPhilcoは1930年にmodel 20Bというカセドラル型キャビネットのTRFラジオを発売し,世の中は一挙にカセドラル(ミゼット)ブームになりました。このPhilcoは翌年の1931年(昭和6年)にmodel 70というスーパを発売しています。'24の自励コンバータ,IFは260kcです。IFTはコイル(コア入りかどうかは不明)とトリマ・コンデンサです。同社は,以後専用変換管2A7の登場後かなり後まで同種の自励コンバータを用いたラジオを作り続けました。1934年(昭和9年)のカセドラル型のmodel 89, 19, 47DCは,6.3V点火の4極管'36を変換管に用いてIFを260kcとしたスーパでした。さらに後年のZenithのTombstone/Farmの4V31型には2.0V点火の電池用5極管15とIF456kcを用いています。日本では終戦後の一時期UZ-6D6の自励コンバータが出現したそうです。

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3. 2A7-6A7 Ages/2A7-6A7の時代

1933年(昭和8年)になると,RCAはついに専用変換管2A7を発表しました。これは発振用3極の上に5極管を載せ,発振器と混合器の遮蔽を改善した7極管です。RCAは1930年代になってスーパヘテロダインの特許を解放したこともあって,本格的なスーパの幕開けがやってきました。国内では,この球はUt-2A7として翌年の1934年(昭和9年)に国産化されました。同じ時期にRCAは6.3V点火の,検波用2極管と増幅用3極管を納めた複合管75,出力管42,それらの2.5V管2A6, 2A5を発売し,1年遅れで国産化され,球の構成から見れば「5球スーパ」のお膳立てが揃ったことになります。

Ut2A7-UZ58-UZ2A6-UZ2A5-KX80

中間周波増幅管UZ-58は前年に,検波低周波増幅管UZ-2A6や出力管UZ-2A5もほぼ同時に国産化されて,整流管KX-80は既にありました。しかし,当時のRCAのラジオ,Tambour-28D, R-28Pなどを見ますとIFが175kcと低いためイメージ比は十分でなく,なお高周波増幅段は省略できなかったことが分ります。このため,高1付き,中間周波増幅なし,プレート検波などという今日から見ると変則的な5球スーパだったことが分ります。

[RCA R-28 1932年]

58(RF)-2A7(Conv)-57(Det)-2A5(AF)-80(Rec)

当然ながら,AGC(自動ゲイン制御)などはありませんでした。さらにこの時期には2極や3極複合管(2-5)Ut6B7,(3-5)Ut6F7が登場したため,UZ2A6が主流だったという訳ではなく,検波を中心にIF段やAF段がこれらに置き代ったヴァージョンが作られ,形式は混沌としていました。

昭和9年(1934年)頃には,米国の初期のトランス・レス用球(300mA,25V)として出力管UZ-43と整流管KX-25Z5も国産化され,レス化の材料が揃っていました。

Ut6A7-UZ78-Ut6B7-UZ43-KX25Z5

しかし,ここに使用された6.3V管は通常球で,ウォーミング・アップ・タイムの規定されていない,断線に弱い,さらにヒータ電圧の余った分はACケーブル内の抵抗で消費するタイプで湿度に弱い,などの弱点がありました。国内ではトランスが安かったせいもあって普及しなかったそうです。

日本国内では,1935年当時の球が戦後の復興期までスーパラジオに入り交じって使用されました。Ut6F7は混合器と発振器の動作例も知られていますが,この目的ではもっぱら無線機に使われたようです。

1935年になると,米国では6A7は入物やベースを変えた6A8, 6A8GT, 6A8Gとなりました。

RCA-4X3 tomb 1936 (レス) 6A7G -(460kc)- 6F7G - 43 - 25Z5G

Philco610 tomb/con 1936 6A7G -(460kc) 78 -75 -42 -80

Philco37-60 cathed 1936 6A8G (470kc)-6K7G 6Q7G 6F6G 5Y4G

AirLine62-425 box 1936 6A7G -(465kc) 78 -75 -41 -5Y3G

Zenith6S254 1937 con 6A8G 6K7G 6H6G 6F5G 6F6G 5Y4G

この当時の中間周波トランスは463kHzに移っており,高周波段の省略も可能になっていました。

後年の5球スーパ形式がはっきりと登場するのは1936年(昭和11年)頃で,6.3V管のライン

Ut6A7-UZ6D6-UZ75-UZ42-KX80

で,自動音量調整付きが発売されたました。こうなると,戦後のスーパと全く遜色が無いばかりか,よっぽど良く作られていたかもしれません。戦前の国内スーパラジオの発達は事実上ここで終わりました。

また,電池管のスーパラジオもあり,米国ではST管の1A6が初めに作られ,その改良版1C6も登場しました。1A6(2.0V,0.06A)は35(2.5V,1.75A)をもとに作った電池管です。国内では,まず1A6のヒータ電圧を1.1V,0.13Aに改造した独自のUZ-135を作りました。さらに,1C6のベース・ピンの配列だけを変更した独自のUZ-1C6Bも作られました。ただし,電池管の変換管はラジオではなくもっぱら業務用や軍用に使われたようです。

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4. Metal Tube Ages/メタル管時代

米国のスーパラジオは,さらに進歩を続けました。まず,1935年(昭和10年)頃からオクタル・ベースのメタル管が登場しました。容器が新しいだけでなく中身も従来の球を改良した新型管だったので,ラジオにどんどん使われるようになりました。数年後には中身だけを従来のチューブラ型ガラス管やST型ガラス管に移し換えオクタル・ベースとして作り易くしたGT管とG管が誕生し,ラジオにはメタル管やGT管が入り混じって使われました。この新型メタル管には,専用ミキサ管6L7と変換管6A86K8が含まれており,ガラス管版の6A8GT, 6K8GT, 6L7GT6L7Gも登場しました。6A8はST管6A7をオクタル・ベース化しただけの球と見られますが,6L7は新しく設計した混合専用の6極管,6K8はビーム構造を採用した混合用6極管に発振用3極部を配置したような球です。

国内では,メタル管の国産化も進められ,RCAが1935年から36年にかけて発表した球は1938年(昭和13年)には7品種が国産化されました。その中には従来の国内ラジオ管には無かった種類のビーム出力管US-6V6や混合管US-6L7が含まれていました。しかし,メタル管は少量しか生産できなかったせいもあって,全て軍用に廻され,ラジオには使用されませんでした。また,オクタル・ベースのGT管やG管は入れ物が変っただけですので,この時点では特に国産化されませんでした。そこで,6L7系だけはST容器の6L7-Gを元にしてオクタル・ベースを7本足のUtにした日本独自のST管Ut-6L7Gとして国産化されもっぱら通信機に使われました。しかし,6K8はとうとう国産化されませんでした。

1938年頃には,米国では,トップ・ピンを無くしたシングル・エンド型のメタル管が発表され,その中には新型変換管6SA7が含まれていました。これは6A7/6A8の改良版で後の標準的変換管になった球で,米国の5球スーパはこの新型管に一斉に切り替わりました。ところが,日米関係は中国大陸の戦争のために悪化しており,この球の製造にかかる情報は入手できなかったのかもしれません。戦後まで国産化されることはありませんでした。しかし,日米が開戦してから,1943年頃に12SA7相当の軍用の類似管CH1が作られました。これはオクタル・ベースのメタル・ガラス管(メタル・シールドを被ったガラス管)でした。

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5. Battery Miniature Tube and Loktal Tubes/

電池用MT管とロクタル管

1939年には米国ではMT管も誕生し,それまでST管やGT管で作られていた乾電池式のポータブル4球スーパもいよいよコンパクトになりました。

1R5-1T4-1S5-1S4/3S4

戦後はAC用の整流管117Z3も加わり,AC/DCのポータブルが流行りました。当時は,わが国では日支事変にともなう米国の禁輸政策のため,この新しいMT管は文献により紹介されたに止まり,現物は登場しなかった模様です。国内の球メーカ東京芝浦は試作に成功したものの,商品の生産には新たに専用の設備を開発する必要があり,結局,国産化は戦後に持ち越されました。

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6. Transformerless Tube/レス管

1939年頃には,米国では150mA系のトランス・レス用メタル管が誕生し,また各メーカは一斉にトランスレス・ラジオを発売しました。12SA7, 12SK7, 12SC7, 50L5, 35Z5などがそれです。

国内では民生用STレス管が1939年頃に作られ,3球再生の放送局型122号受信機,4球高1再生の123号受信機が誕生したのは有名ですが,実はこのとき,レス5球スーパ用の球Ut-6A7相当の12V管12W-C1UZ-75相当の12Z-DH1も作られました。当時考えられていたラインは

12W-C1,12Y-V1,12Z-DH1,12Z-P1,24Z-K2 +Balast

しかし,レス版の5球スーパを商品化するメーカはとうとう現れませんでした。

安定抵抗管には28V/150mA相当のものが必要でしたが,実際に作られたのは4球高1用のB37, 3球再生用のB49, 整流管に12X-K1を使用する3球再生用のB61の3種類で,B28と称するものは作られなかったようです。12X-K1,B61を使用する簡易型3球再生ラジオと上記のレス5球スーパには放送局型の型番がありませんが,他の番号から類推すると,原案は放送局型121号と124号だったかもしれません。

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7. Five Tube Super in Post War Period/

戦後復興期の5球スーパ

戦前のスーパ・ラジオは,一部のお金持ちが使う高級品でした。それが,国民的存在になったのは戦後の1947年以降です。GHQの再生ラジオの禁止勧告(1947年)により,一挙にスーパー化が始り,ダイナミック・スピーカの普及とともに5球スーパが標準となりました。

この当時生産されていた既存の球で5球スーパを構成すれば,

Ut6A7-UZ-6D6-UZ-75-6Z-P1-KX-12F

Ut6A7-UZ-6D6-UZ-75-UZ-42-KX-80

というラインになります。しかし,何故か,東芝はUZ-75の代りに6Z-DH3を作りました。初め登場したのは,

Ut6A7-UZ-6D6-6Z-DH3-6Z-P1-KX-12F

Ut6A7-UZ-6D6-6Z-DH3-UZ-42-KX-80

のラインでした。しかし,Ut6A7は初めから限界が判っていたようです。東芝は,6SA7のST版6W-C5を1948年に開発しました。さらに,6Z-DH3のトップ・ピンを廃止した6Z-DH3Aが誕生しました。

6W-C5-UZ-6D6-6Z-DH3A-6Z-P1-KX-12F

6W-C5-UZ-6D6-6Z-DH3A-UZ-42-KX-80

Choice/選択子

日本無線は,戦時中軍用に作った球の民生転用を図りました。それが,1946年頃に登場したボタン・ステムのGT管で,ヒータ電圧12Vは電流がマチマチでトランスレス用ではなく,自動車などの移動無線機用を目的としたものでした。

12G-C4(N-361),12G-R4(N-051),12G-V3(N-053),12G-DH4(N-231),12G-P7(N-052)

ヒータ電流は0.36A,0.22A,0.22A,0.22A,0.36A。

東芝はトランスレス175mA系を作りました。1947年頃のことです。ホーム・スーパー・シリーズとして売出したがほとんど普及しませんでした。

12W-C5,12Y-V1A,12Z-DH3A,12Z-P1A,36Z-K12

戦後の電力事情では電源電圧が60V位に下がることもあったといわれています。戦前の幻のレス5球スーパ(放送局型124号受信機)では,倍電圧整流を小容量の24Z-K2で行っていたが,ヒータ電圧が20V以上ドロップすると両ユニットの出力に不平衡を生じ,ケミコンがパンクする事故が起きやすかったらしい。このため,安定抵抗管を止めて,ヒータ電圧を50%UPさせると同時にヒータ電流も15%UPし,安定化を図ったのが,このシリーズです。しかし,局型レス受信機の悪評のため,普及できなかったようです。

自作用としか思えない2.5V系の球もありました。それが,3W-C5です。不安定な2A7に換えて改造するための保守用球だったのでしょうか。1948年以降の登場でしょう。

3W-C5,UY-58/UY-57,UZ-2A6,3Y-P1/UY-47B,KX-12F/KX-80BKなど。

国内でまず普及したのはST管の6W-C5なのは,当然のこととして,このほか,レス用GT管が開発されました。これは1947年頃です。敗戦後,日本のメーカは来るべき時代の方向を模索しており,東芝はパキスタンからの情報で世界の動向はGT管と判断したそうです。東芝は

12G-C5,12G-R6,12G-DH3,30G-P9,30G-K5

で,川西は

12G-C5,12G-V4,12G-DH6,30G-B1,30G-K7

でした。また6.3V管の6G-C5は移動無線用として,6G-R7の開発, 6V6-GT, 6H6-GTの国産化と同時に開発されました。

しかし,GT管はほとんど活躍する場がありませんでした。その後同一目的には米国系の6SA7-GTが国産化され(1949年),各社で生産されたこと,ラジオはGT化を経ずしてMT化されてしまったことで,このシリーズの存在価値は全くなくなってしまいました。

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8. Five Tube Super in Golden Ages after WWII/

戦後黄金期の5球スーパ

ここでちょっと,戦後ラジオの発展史を歴史の講釈よろしく述べたいと思います。

戦後,ラジオの部品調達は容易ではなく,1945年(昭和20年)に生産されたラジオはわずか。

1946年に生産されたラジオは67万台。ラジオは価格統制(上限値)を受けていましたが,それ以下であってもNHKの形式認定を通らないと,免税や資材の補償の特典が受けられません。特に,ラジオや部品製造会社は政府のお膝元の関東に集中していただけに戦災による工場焼失も多く,復興に追われていましたし,部品調達にはいちいち役所の統制に従わねばなりませんでした。小山正三氏の「関西受信機器界の概観」電波科学(1947.2)によると,「関東では指導機関(NHK)や統制団体(?)への連絡交渉から,まず生産すべき受信機の資材表と規格を決めてかかっている間に,関西では取りあえず自力でかき集め得る資材をありたけ集めて,与えられた限界価格内でとにかく鳴るセットをできるだけ多量に生産してしまっている」のだそうです。67万台の90%は関西の7社によるものだったそうです。関西のラジオ会社の1946年末頃のシェアは,早川電機工業24万,大阪無線14万4千,松下電器産業12万,戸根無線6万,川西機械製作所1万2千,三菱電機1万2千,双葉電機(不明)というところで,全部で61万台位はあったようです。逆に,関東の老舗は苦戦し会議に疲れていたのです。

1947年には生産台数はようやく77万台になりました。関東も少しは増産できたのでしょう。ラジオはまだ並四,高一の時代でしたが,1947年末にはGHQの勧告により突然スーパの製造が義務付けられました。

1948年の製造数は81万台。前年と比べてほとんど横這いですが,本格的なスーパ時代の幕開けで,いきなり中身を経験のないスーパにしたのですから,大変な努力だったことでしょう。各社とも慣れないスーパの増産で,新種の部品調達に苦労しました。IFT用のコアを供給できる会社は東京電気化学(TDK)1社だったそうですが,コンデンサも後に主流となった酸化チタン磁器型を供給できたのは関西新興の村田製作所だけだったそうです。ですから,IFTは後に湿度に不利で日本には向かないとされた空気バリコン式トリマ・コンデンサ型のIFTも同様に多く使われました。

1949年になると,GHQの経済顧問のドッジライン発表によりデフレ抑制のための緊縮財政が始まりました。お陰で経済は急減速,極度の不況に陥りました。ラジオ用真空管の生産数自身はさらに増加したのですが,変わり種の電池式ラジオ用MT管などは全く売れなくなったそうです。不況の深刻化で,ラジオ会社によるラジオの生産台数は減少しました。関西のラジオ会社のうち,ナショナル受信機の松下電器のラジオ工場も7月には半日操業を余儀なくされ,シャープ受信機の早川も危ない時期を過ごしました。ヘルメスの大阪変圧器の子会社大阪無線,戦後の一時期活躍した戸根無線,双葉無線は倒産しました。関東各社も苦戦し,ナナオラの七欧無線,テレビアンの山中電機は経営危機を迎え,なんとか凌ぎましたがこれにより体力を消耗し1950年代末には東芝傘下に入ってしまいました。不況であってもラジオの人気は衰えず,高額な物品税30%を払わないですむ自作ラジオに販売店が着目,部品を購入して組立てた物を販売する「組立ラジオ」,いわゆる闇ラジオが多く出回りました。ラジオ・メーカが組み立てると30%の税,素人がキットを組み立てれば無税ですが,プロが組織的に組み立てて売る物は工場が闇にあるようなもので脱税行為となります。自作の黄金時代の到来です。自作用の部品メーカも誕生,後年コイルやIFTで有名になった春日無線(トリオ)は,1949年にNHKの認定を取り付けたそうです。コイル・メーカは富士製作所のスターも有名でした。

1950年になると,ドッジラインによる景気低迷が続きました。ラジオや真空管は価格統制が撤廃され,自由化されました。4月に新しい電波法誕生。この年,ラジオの周波数ダイヤルが標準化され,IFTの周波数も規格化されました。朝鮮戦争が勃発,景気は徐々に回復に向かいます。ところが,セット・メーカの製造数は減少をたどりました。翌年の民放開始のニュースはラジオの買い控え現象を引き起こしたそうです。受信ダイヤルには民放のコールサインが表示されていました。古いものは売れなくなりました。自作ラジオだけが,もてはやされました。

1951年には戦後処理の目玉,対日講和条約が結ばれ,民間放送も4月には予備免許を与えられ,9月以降本放送開始。この年,ラジオの生産台数は41万台に激減しました。ところが,市場に出た闇ラジオは大凡60万台と推定されています。多くのセット・メーカが倒産,自作の全盛時代でした。セット・メーカは商品の差別化の努力を余儀なくされ,東芝マツダはマジック・アイEZ-6E5を販売,岡谷無線ロダンは6E5-MTを開発,たちまち,マジック・アイ付き高級スーパが流行しました。

翌1952年になってようやく日本は連合国の占領状態から解き放たれ,独立国家になりました。民間放送が軌道に乗るとともに,メーカ製のラジオが復活をとげ,ようやく戦後ST管式スーパの華やかな黄金時代を迎えました。NHKの受信契約者数は1,000万世帯を越え,普及率は63.6%,この年,昔ながらの並4に代わってスーパが主流になったそうです。この時代のラジオは生き残りをかけた販売合戦のため,実に多くのデザインがあり,品種も豊富です。

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9. Battery Tube Portable/電池管式ポータブル

Refer to Battery Tubes/電池管参照!

米国では戦前の1940年1月にRCAが新型の電池管(MT管)を開発,オリジナルは4種,1R51T41S51S4で,後に1S4のヒータ接続に改良を加えた3S4が登場しました。また,1T4の新品種に1L4,シャープカットオフの1U41S5の改良管1U5が登場,一方,出力管は3S4から,3A43Q43V4が登場しました。GE, RCA Victor, Zenith, Admiral, Philco, Garod, Crosleyなど約10社のラジオ・メーカが1940年から41年にかけてさっそく製品化しました。日本では電気通信学会誌の1941年11月号に「超小型放送受信機」という題名で写真と回路図入りの解説が掲載され,少なくとも専門家の間には米国の様子は分かっていたはずです。

しかし,戦争のために,日本ではMT管の国産化は中断し,戦後に持ち越されました。1947年頃から品川電機によりフィラメントを日本の規格で作った国産管B03Aなども作られましたが,ラジオ・メーカは激動期にありポータブルどころではなかったようです。一息ついた1949年頃になってNEC,TEN,JRC,仲田電機が米国MT管の相当管をようやく製品化,1950年になってラジオの大メーカとしてはシャープが初めて4球スーパのPE-2を販売しました。ところが,折しも,極度の不景気でラジオ会社は倒産も続出。その後,朝鮮戦争で景気が回復しはじめて,本当のポータブルの時代が到来しました。やがて1954年頃には,不経済な50mA系のフィラメントに代わり,PhilipsのDシリーズ(25mA系)が現れ,国内では提携していた松下ナショナルがまず国産化。他の国内球メーカは焦りの色濃く,東芝マツダや神戸工業TENは急遽日本独自のSFシリーズを開発し対抗しました。また,日本電子管製作所(パーム)や太陽電子(アポロ)はサブミニアチュア管のSFシリーズも作りました。

この頃になると,ラジオ産業もポータブルを組み立てる新興会社が続出,輸出も好調で,大変な賑わいとなりました。1955年9月に無線と実験に特集が組まれ写真と回路図が掲載されました。それだけでも,以下のようなメーカがありました。イースター(マル信無線電気),シルバー(シルバー商事),バンビイ(富士電機音響製作所),クラウン(旭無線電気),リンカーン(リンカーン無線電機),オータ(オータ・ポータブル工業),サトー(佐藤部品),ユニオン(大成無線),スタンダード(スタンダード無線工業),フジ(村山無線),ナマジマ(中島無線),パーム(日本電子管製作所),ミリオン(東海無線工業合資会社),パートナー(日本無線研究所)。

しかし,1955年になるとSONYのトランジスタ・ラジオが出現,多くのラジオ会社はやがてトランジスタ式へと移行して行きました。トランジスタさえ手に入れば,あとは家内工業みたいなものだったのです。米国への輸出攻勢に拍車がかかる一方で,真空管式ポータブルは電池の消耗のために見放され,1960年頃にはすっかり消えて無くなりました。

ところで,日本の電子産業は今日では輸出当たり前,世界の電子工場を自負しているが,戦後1955年までは何とほとんど輸出していませんでした。占領時代には近隣諸国に少し,1955年の前半でも僅かに南米向けに真空管とラジオ部品を輸出している程度でした。ところが,1955年後半になると事態は急変!ラジオ受信機の輸出が好調な伸びを見せ,1955年末までに本家米国に3万台近くのポータブルラジオが出荷されました。1955年11月の時点の半年間の累計で,米国28,732, 南米2,619, 香港2,150, シンガポール2,859, スウエーデン655, メキシコ1,000, モロッコ500, ポーランド1,600の合計39,755台が輸出されました。輸出の嵐。ポータブル・ラジオは輸出の花形でした。確かにその後のトランジスタはすごかったけれども,その下地はポータブル真空管ラジオが作ったのでした。今日海外で見られる日本製の真空管ポータブルラジオは1955年から1960年頃までに作られたものと見て良いでしょう。

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10. Miniature Tube and Transformerless/

ミニアチュア管とトランスレス

RCAは1945年末に自動車ラジオ用の新しい真空管として,電池管用に開発されたミニアチュア管を用いた一連の6.3Vシリーズを発表しました。6BE6, 6BA6, 6AT6, 6AQ5, 6X4などでした。本家米国では,FM用として,またAC電源のラジオ用としても普及しだしていました。日本で後に有名になった6BD6はRaytheonが開発しました。6AV6は開発者不明です。

進駐軍の占領下では海外からの情報が希薄,日本の唯一の海外窓口は何とパキスタンであって,パキスタンにラジオ事情を調査した結果,世界情勢はGT管にあるという認識が広まり,真空管会社では1940年代後半はST管からGT管への切替が行われていたのです。この中でmT管優位を主張したNECが最も早くミニアチュア管の量産体制に入り1950年には発売にこぎ着けましたが,ああ見込み違い!だれも使いません。ラジオ・メーカーはそれどころではありません。並四・高一から新しいスーパーに切り替え,日夜増産にはげんでいたのですが「新しい」ST管で大満足,ラジオを買うユーザーも大満足,何で高価なmT管など欲しがりましょう?もちろん,高価なGT管もほとんど普及しませんでした。しかも,大不況により経営が悪化,庶民の購買力もありませんでした。売れないでは話になりません。社運をかけたNECは倒産の憂き目に?あいかけて,朝鮮戦争による特需により経済状態が上向きになり救われました。

神戸工業TEN,東芝マツダも6.3Vヒータのラジオ用mT管を1951-1952年頃に揃えて発売しましたが,1950年末当時の供給源は唯一NEC。このNEC製の球を使用したラジオが東洋産業ラジオ製作所の「メロダイン」というコンパクトなラジオになって登場しました。1951年の終わりには松下もNECの球を用いてPS-51を発売しました。この頃の構成は

6BE6-6BA6-6AT6-6AR5-6X4

が標準でした。

1953年になっても採用したのは極わずか,先の東洋産業ラジオ製作所はマジックアイ付きモデルMS-6MA, MS-6LB, MS-6LD, 高1付きのMS-7LCの4機種を発売していました。全て6BD6モデルです。大手では日本コロムビアが7球オールバンドの高級ラジオにGT出力管とともに混成で採用(球は東芝製か?),八欧無線がポータブル電蓄6SP-1に採用(球は神戸工業製か?)したに留まりました。松下はPS51以来,真空管は自社製造路線に切替えたこともあり,GT管路線に変更し,mT管はPhilipsとの提携により製造が本格化するまでお預け状態でした。有名な5M-K9は1952年頃に開発されていたはずですが,1953年頃にはまだラジオに登場しなかったようです。なお,日本ではトランス付きラジオのIF管は6BD6が標準になりました。日本ではST管時代が長く続いたこともあって,IFTはgmの低いUZ-6D6用に出来ていましたので,6BA6ではややgmが高く使いにくかったようです。そこで,UZ-6D6に近い6BD6が主流となり,日本の伝統になりました。

Plustic Cabinet/プラステイック・キャビネット

ラジオのキャビネットは長らく木製でしたが,1953年頃から次第にプラステイックが増えてきました。初めはダイヤル部やパネルの化粧に使われていたのですが,キャビネット丸ごと作ることができるようになりました。松下電器産業はプラステイック・ラジオPS-53を1953年に発表しています。もっとも,戦前の1936年頃にはやはり松下はプラステイック・ラジオを作っていました。今で言うベークライト製です。戦後の1953年から1954年頃まで作られたキャビネットはやはりベークライトに近いものでした。松下のものはパネルの一部に紙エポキシ?のような材料も使っていました。キャビネット全部をプラステイック化したのはサンヨー電機だと言っています。1954年の事で1万円を切った商品で人気を博したそうです。1953年頃には木製漆塗りの見事なキャビネットのミニアチュア管ラジオがロダン真空管から発売されましたが,サンヨーの廉価なプラステイックラジオの出現で販売を中止したそうです。以後,小型ラジオはプラステイックが主流になりました。テーブル・トップは相変わらず木製でしたが,1950年代末にはメーカー製はほぼ消えて無くなりました。

Transformerless/トランスレス

帝国電波(クラリオン)は1954年頃トランスレス・ラジオを出しています。これはmTトランスレス管だったことでしょう。この頃から各社ともトランスレスに向かったようです。この頃のトランスレスは

12BE6-12BA6-12AV6-35C5-35W4

が標準でした。IF管はトランス付きとは逆に12BD6が使われることは希で,日本でも米国と同様に12BA6が主流になりました。これは,+Bが低いので感度が稼げるHigh-gm管に人気が出たためでしょう。

東芝は1955年にめじろAなど7球高級ラジオの一部にmT管を使用しましたが,それと同時にトランスレス管によるコンパクトなテーブルトップラジオ「かなりや」シリーズを発売しました。これぞ,プラステイック・キャビネット・ラジオでありまして150mA系のトランスレス管の登場でした。整流管として25M-K15も登場しました。

1956年になるともうトランスレスはあたりまえ,ST管ラジオは終わりを告げました。出力管としてAC100Vで十分な出力が得られるHL94/30A5が松下から出たのもこの年です。整流管としてさらに25M-K15よりも省電力タイプの19A3も出ました。マジックアイもレス用に6M-E10が後に出ました。

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11. Two Band Radio with Short Wave/

短波付き2バンドラジオ

短波ラジオは戦前からスーパーでした。戦後もオールウエーブ受信機として作られました。「短波ラジオ商業放送の進展のため」受信機には20%の物品税が付加されました。従来500Wで実験放送を行っていた日本短波放送(株)JOZは,1954年8月に5kWで商業放送を開始,しかし,1955年8月には12MHz以下の5球以下のラジオに限り中波ラジオと同様に5%に引き下げられました。なお,同調指示管(マジックアイ)は従来無税でしたが,1955年11月より5%課税されることになりました。

富士製作所STAR,春日無線トリオなどのコイルメーカーは1954年には2バンド用を売り出しましたが,大手ラジオメーカーの動きはやや遅く1956年に2バンド付きの市場調査的な商品を出し,売れると分かると1957年になるとどっと2バンド型が出回るようになりました。逆に中波のみというラジオは珍しくなりました。

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12. Hi-Fi Radio and Stereo Broadcastings/

Hi-Fiラジオとステレオ放送

戦後,いつの頃かレコードにLPレコードが登場,Hi-Fiブームが訪れました。SP時代にはレコードよりも音質が良い場合もあったというラジオですが,LP時代になるとラジオや映画にもその影響が及びました。1955年,NHKは東京で第一,第2放送を用いて中波AMステレオ放送の実験放送を始めました。2台のラジオでステレオが楽しめる訳です。週1時間程度のプログラムだったようです。1960年代前半まで続け,FMにバトンタッチしました。その間,民放もTBSと文化放送が組んでステレオ放送をやったりしました。ラジオのHi-Fi時代の突入です。

ラジオにもHi-Fiと銘打ったものが各社から登場し,識者から様々な意見が寄せられました。受信側の音声帯域は10kHz程度しかないが無理に15-20kHzに押し広げ,しかし出力は小さく,スピーカの口径も6半程度,キャビネットも電蓄に比べると小さく,従来のラジオよりも少しが大きくなったに過ぎぬ,検波回路に工夫をしたり,NFBをかけたりしたが,まだまだ電蓄には及ばぬ。Hi-Fiではなく従来の普及型よりは音質の良い高級ラジオなのではないか,など。確かにそのようでもありましたが,その後,ツイータ付きも現れ,6半バスレフの箱ほどのラジオも続々と現れたのです。

1955年には検波では6Z-DH3Sという検波管も現れました。これは2極部のカソードを3極部と分離し,歪みの多いゼロバイアス増幅をやめようという主旨の球でしたが,あまり普及しませんでした。それに代わり,6AL5やゲルマニウムダイオードが使われました。1960年頃,シャープは6U8の3極部を2極管として使い,また5極部を高ゲインの低周波増幅管として使って,NFBをかけた例もあります。

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13. FM Ages/FM時代

Refer to FM Tuner Tubes/FMチューナー管参照

Beginings of Japanese FM Broadcast/我が国のFM放送の始まり

我が国のFM放送は世界的に見ると10年以上出遅れ1950年代末になりました。FM放送は,米国では放送をより謳歌しようという贅沢な要求から,また欧州ではバンドの混雑を避ける目的でやむをえず発達したのに対して,我が国ではFM放送を行う積極的な理由が見つからなかったのが遅れた理由です。戦後のBC放送の復興と民放の登場による活性化,次いでTV放送の着手と産業レベルでの興隆に目途が付いた頃になって,Hi-Fi放送がにわかに脚光を浴びる存在として浮上し,ようやくFM放送を望む機運が訪れました。1957年東京でVHF帯の実験放送が始められたのが我が国のFM放送の始まりとされています。翌年には大阪でも開始されました。

Japanese FM Radios and Tubes/我が国のFMラジオと真空管

国内FM受信機セットメーカーや管球メーカは需要あっての供給ですから,国内FM放送の10年以上の遅れはそのままFM受信機やFM用受信管の製造にも当てはまりました。FM受信機の分野においても日本はこれまた後進国だったのです。FM受信機のチューナー部に関する1958年当時の国内の文献には,米国方式(ペントードアンプ+他励式ミキサー)と欧州方式(双3極管によるGGアンプ+自励コンバータ)の両方が登場し,日本のユーザーは既に確立されているどちらかの方式を選べば良かった訳でです。しかし,同じ外国技術の模倣/コピーから始まった大正時代のBC帯ラジオ受信機や戦前のTV受像機などがやがて並3,14インチ白黒という具合に日本独自のスタイルを形成していったのに対し,国内FM放送は真空管からトランジスタへの移行期に始まったこともあり,真空管式FM受信機は日本独自のスタイルを形成する前に終わりをとげてしまったのです。真空管時代の日本が果たした寄与は極わずかだったと言えましょう。日本独自といえるのは僅かにコンバータの周波数が異なり,日本はアジア地域に属し周波数帯が欧州や米国と違う76-90MHzになり,コンバータのパラメータが幾分異なるといった事位ではなかったでしょうか。

管球メーカーの動向はというと,1957年に東芝はHi-Fi用真空管を発表,FM受信機用にも検波増幅用に6T8/19T8を国産化,1958年には,東芝, NEC, 日立などは一斉にFM専用チューナー管として欧州型の 6AQ8/17EW8, 米国型の6DT8/12DT8,それにAMコンバータ兼IFアンプ管6AJ8/12AJ7を国産化しています。日立は1959年にTV用チューナー管6R-HH2を150mA系トランスレス化した17R-HH2を試みたが需要は生まれませんでした。自社の製品には6R-HH2そのものを用いたセットも出しています。

With Five Tube Super?/5球スーパー付き?

FMラジオの詳しい歴史は「FMチューナー管」に譲るとして,ここでは5球スーパーがどうなったかについて書きましょう。小型ラジオでは5球スーパー+FMチューナーの形式が作られました。ここまでくるともはや5球スーパーとは呼べないかもしれません。

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