Before WWII, the regenerative type four tube radio receiver, so called Nami-yon, was used in Japan as a standard radio receiverand, as well as the TRF type radio receiver, so called Kou-ich. These receivers contributed to spread ....
日本の標準ラジオと言えば,戦前は並4や高1の再生検波ラジオ,戦後は5球スーパーです。誰もがラジオ放送を聞けるようになったのは「普通」,「標準」,「普及型」などと呼ばれた月並なラジオのお陰です。このページでは,まず戦前の並4や高1ラジオの歴史を振り返りましょう。
1. Appearance of Namiyon/並4の誕生
2. Growing of Namiyon/並4の進化
3. Counterattack of Namiyon against Normalization policy during war-time/戦時下の標準化政策と並4の逆襲
4. Namiyon during post-war time/戦後復興時の並4
5. Namiyon during super-het ages/スーパ時代の並4
Return to Radio Gallery/真空管ラジオ展示室にもどる
日本のラジオ放送は大正14年(1925年)に始りました。この頃にはラジオに必要な真空管技術は欧州や米国で完成されており,また,ラジオの受信方式についても再生検波(アームストロング,明治45年(1912年))やスーパー・ヘテロダイン方式(同,大正7年(1918年))などの基本技術は既に発明されていました。その後のラジオの発達の歴史は如何に良い部品を安く大量に作るかという実務上の問題の解決にあったといっても過言ではありません。
我が国のラジオ産業は,放送開始前年の大正13年(1924年)には,まず米国球UV201A, UV199などを国産化し,鉱石を含めた約30種のラジオが逓信省の形式証明を受け販売にこぎつけています。しかし,我が国の放送開始は米国に比べると10年,欧州のイギリスに比べても5年ほどの遅れを取っていた事からも判るように,日本のラジオ産業はほとんどが技術導入の形で始っており,単純なラジオ技術の立ち遅れに留らず,周辺産業の未発達による遅延,特許料支払責務という経済的なデメリットなど,後発組の悲哀を全て背負い込んでスタートした訳です。これを克服するのが如何に難しかったかは,後世の日本の庶民のラジオの歴史が証明しています。
放送開始頃に,まず庶民が聴取者の仲間入りができたとすれば,それは鉱石ラジオのお陰です。放送局が1局しか無いので混信は皆無で,感度は良いアンテナで補えるので,サービス・エリア内では十分な受信が可能だったのでしょう。欠点は不便なレシーバを必要とした点です。
欧州,特にイギリスやドイツでは球式ラジオは税金が高いので鉱石ラジオが大いに普及したそうで,国民の気質とさらに古道具の収納場所や天候の条件にめぐまれ,良好な状態のものが数多く残されています。ところが,今日の日本では鉱石ラジオはほとんどお目にかかれません。日本人は物持ちが悪かったというのも1つの理由でしょう。家が手狭まで古道具の収納場所に困り,また湿度が高いので欧米流の金属製品は保存が容易でないことも確かです。また,サービス・エリアが狭かったことも一因と考えられます。放送局のサービス・エリア自身は新設や電力の増強の度に拡大され,時の経過とともに地方の大都市へ,さらにその周辺の市町村へと拡大していったはずですが,起伏の多い山国では限度があります。また,日本は後発組だったことから球ラジオの交流化が早くから進み,鉱石ラジオの陳腐化も意外に早かったという事実もあります。昭和の初期には雑誌に22通りの回路図が掲載されてたそうですから,一時はかなり普及したのでしょうが,その絶対量は少なかったのではないでしょうか。
開局当時に,球式ラジオの基本技術はほとんど確立されてはいましたが,工業としては未成熟で製造技術が伴っていないのでとても高価でした。何よりも,ラジオの電源は直流式で,維持管理の手間と費用が大変で中々普及しなかった一因となっていました。
ところが,昭和3年(1928年)には初の交流用真空管UX-226が国産化され,日本にも交流ラジオ時代が訪れました。その代表は検波に鉱石を用い,整流にグリッドをプレートに結んだ2極管接続を使用したUX-201AやUX-226のレフレックス・ラジオですが,日本は国土が狭いので案外電気も早く引けていたので,ラジオの交流化はその後の日本の主流となりました。
翌年の昭和4年(1929年)2月にはUX-112Aのグリッドを除いた日本独自の整流管KX-112Aが発売され,早くも欧米とは一線を画したラジオの標準化の道を歩み始めました。この年,検波用傍熱管UY-227(1929.10)が国産化され,ついに交流式並四形式のラジオ
Line of UY-227-UX-226-UX-226(or UX-112A)-KX-112A
and Horn Speaker/ラッパ型スピーカ
が確立されました(電子管の歴史)。「並4」という言葉はその後確立したものですが,その語源は田口氏の解説によれば,「並み」が「普通」を意味し,「4」は4球ラジオだそうで,日本の標準となり,戦後の2年位までを含めると実に17〜18年位のロングセラーです。その後の5球スーパは1948年から1965年当りまで,同じく17〜18年続きました。
並4という名前がまだ無い頃の並4形式のラジオは,スピーカが外付けでした。日本では放送開始当時には既にコーン・スピーカも輸入されていましたが,ラジオの出力は数10mWの時代,能率の優れたラッパ型のホーン・スピーカが使われました。ところが専用の出力管UX-112Aが普及しだすと,スピーカにはかさばるラッパがいらないマグネチック型のコーン・スピーカが使われるようになりました。始めはコーン・スピーカをスタンドに立てて前面に飾りのグリルを張り付けた扇風機のようなスタイルでしたが,やがて昭和5〜6年(1930〜1931)頃には,スピーカ後面に共鳴胴を付けた小型スピーカ・ボックスに変り,そして昭和7〜8年(1932〜1933年)頃に,ついにスピーカがラジオ・キャビネット内部に組込まれた今日の一体型が完成しました。
ラジオ本体のキャビネットは,ヴィンテージの頃は四角の木箱で,中身は部品を並べる床板とツマミを出す横長のパネルからできていました。ちなみに,床板上の部品は木ネジ留めされ,部品同士は角型銅線で立体配線されてました。主要部品はネジ留めの端子が付いているのが原則で,一部は半田付けがありました。キャビネットはニス塗りの横長木製で,パネルのデザインは通信機スタイル,多数のツマミがパネルに配置されておりましたが,しばらくするとキャビネットは家庭に馴染むように家具調になり,様々な彫り物が施されました。また,一時は全金属キャビネットも登場します。
Appearance of Metal Box-type Chassis/シャーシができる
ラジオの内部構造は真空管の足の規格変更とともに変りました。UV-201AやUV-199の時代は短い4本足でベース部にバヨネット・ピンの付いたUV型で,ソケットは電球と同じようにバヨネット・ピンの部分を合せ上から挿して廻してロックするように出来ていました。ソケットの周囲にはネジ留め端子が4つ付いているタイプで,床板上の配線に向いていました。しかし強い力がベース部に掛かるので,ガラスとベースを繋ぐセメントが良く剥がれるトラブルが耐えません。このため,球の足を長くし,差込むだけで足の1本1本がバネ仕掛けでロックされる規格に変更しました。これがUX型で,球はUX-201A,UX-199となり,ソケットは裏側から配線するタイプに変更されました。しかし,UX型の足の間隔はUV型ソケットと同じでベース部にもバヨネット・ピンは付けられたので,結局,UVソケットを用いて配線はあいかわらず上から行いました。裏側配線が必要になったのは,バヨネット・ピンの無い5本足の球UY-227が登場してからでしょう。つまり,並4誕生の頃は,床板は上げ底となり,エボナイト板や金属板が使われるようになりました。金属板はやがて,囲みがついて現在の金属製シャーシとなりました。
縦型ラジオができ,昭和8〜9年には球がST管になりました。
UY-27A, UX-26B, UX-12A, KX-12B
のラインです。何故球の形状が変わったのでしょう。それは真空管製造工程の機械化が進んだためです。従来のナス管は電球と同じ形式でしたが,電極は自立型でしたので,複雑になればなるほど,電極の支持にガラス玉を使ったり色々面倒になりました。そこで,電極をマイカ板で支持させ,このマイカ板を球の頭の部分で押さえ込む形式に変えたのがST管です。この形式になり,真空管製造の機械化が大分進み,真空管の価格が大幅に下がりました。値段が下がると,利用が一挙に進みますから,ラジオが庶民にも普及するようになりました。
昭和11年(1936)頃には黄金時代が到来しました。この頃の流行は箱型ラジオになりました。
1936年(昭和11年)頃,日本のラジオは絶頂期にありながら,同時に戦時色が徐々に深まりつつある時で,この年放送協会(NHK)は粗製乱造で暴利を貪ることを防止するという大儀名文の下,形式と価格を定めた標準ラジオ案を発表しました。無駄を省いてコストを低減した標準ラジオがあれば,国民も大いに助かりますが,製造各メーカは一斉に反発しました。各社独自の創意工夫があってはじめて良いラジオが生まれるのも事実で,形式と価格が規制されては進歩の芽も摘まれてしまいます。
標準ラジオ案は流れたかに見えましたが,翌年の1937年に日支事変が起きると金属材料などが不足しはじめ,政府の強い意向を受けた放送協会はついに標準化政策を見切発車し,1938年1月に局型1号,3号を発表しました。ともに,ペントード管UY-47Bを使用した再生検波3球式(3ペン)あるいは高1付き4球(4ペン)ラジオでした。さらに,1939年2月に局型1号をオートトランス式にした局型11号を発表しました。
当時のメーカの主力製品は,3極出力管UX-12Aを用いた旧式の並4または5球式高1でコストも高いのですが,実はこちらの方が感度も優れていたのです。結局,1号,3号は法的な拘束力も希薄で各メーカは本気になって作らなかったようです。ごうをにやした政府は直接規制に乗り出し,1939年8月になると放送局私設無線電話規則を作って有無を云わせず,標準化を図りました。
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Receiver |
Type |
|
|
1936/ 昭和11 |
BS Proto Type/ 標準ラジオ案 |
Three Tube/ 3ペン Regen/再生 |
- |
Price 20 yen 20円 |
Jan 18, 1938/ 昭和13.1.18 |
BS-1/ 第1号 |
Three Tube/ 3ペン Regen/再生 |
UZ-57, UY-47B, KX-12F |
Price 23 yen 横型,23円 |
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BS-3/ 第3号 |
Four Tube TRF/高1 |
UZ-58, UZ-57, UY-47B, KX-12F |
Price 36 yen Midjet/縦型,36円 |
Feb 28, 1939/ 昭和14.2.28 |
BS-11/ 第11号 |
Four Tube TRF with auto-transformer /オートトランス高1 |
UZ-57, UY-47B, KX-12F |
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Oct 31, 1940/ 昭和15.10.31 |
BS-122/ 第122号 |
Transformer- less Three Tube TRF /トランスレス3ペン |
12Y-R1, 12Z-P1, 24Z-K2, B49 |
1939.4 真空管ソケット規格 1940.2 真空管シールド缶規格, 安定抵抗管規格 |
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BS-123/ 第123号 |
Transformer- less Four Tube TRF /トランスレス高1 |
12Y-V1, 12Y-R1, 12Z-P1, 24Z-K2, B37 |
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Feb 1942/ 昭和17.2 |
BS-123/ 第123号 (War-time-1) |
sa |
sa |
Chassis and Dial design changed |
? |
BS-123/ 第123号 (War-time-2) |
sa |
sa |
Cabinet design changed |
名称は1号,3号が基本で,11号は1号のマイナーチェンジ版(1の1),トランスレスは12号の2と3と読めば一貫している番号付けであることが理解できます。
では,並4ラジオはこの標準化にどう取り込まれたのでしょう?
放送協会は1938年に局型ラジオとして2種類のペントードラジオを発表しましたが,並4ラジオを禁止したり,あるいは細かな規格を規制しなかったようです。これには訳があるように思えます。並4ラジオはいわば各メーカの主力製品ですからバラエティーに富み利害も対立しやすい形式でしたので,結局,放送協会はこの形式の細かな規格統一を諦め,節約という大前提だけを残して後は各メーカに一任した形をとったのだと私は想像しています。3ペンと高1の4ペンをまず発表したのは反発の最も少ない形式だったからでしょう。2号が欠番だったとすれば並4への含みを残したものと解釈することもできます。
国策型と称する並4が存在したことは知られています。各社の「国策」型は放送局型のような統一規格ではなく,「国策」に従って戦争に強力するぞ,省金属だぞ,という言葉だけが統一されていたという風に受けとめるのが正しいと言われています。しかし,国策型のバリコン,国策型のシールドキャップなど,部品も省金属の統一規格が出来ていました。ラジオ受信機もそれなりの枠組みがありそうに思えます。
放送局型122号,123号が制定された1940年以降の生産数の推移は次の通り。
Year |
Number of Products- BS-type |
Number of Products-Other type |
1940/昭和15 |
40,453 |
- |
1941/昭和16 |
264,109 |
278,322 |
1942/昭和17 |
283,695 |
260,866 |
1943/昭和18 |
203,336 |
361,464 |
1944/昭和19 |
35,303 |
37,560 |
1945/昭和20 |
1,100 |
1,687 |
|
Radio receiver |
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1937-38/昭和12-13年 |
BS T1/ 放送協会T一型 (国策型) |
UY-24B, UX-26B, UX-12A, KX-12F |
AF stage -CR Coupling/CR結合 |
1939/昭和14年 |
NP-1/ 国策1号 (sharp) |
UY-57, UX-26B, UX-12A, KX-12F |
1939.4 真空管ソケットの統一規格 1939.8 Raws -/法律施行 |
1940/昭和15年 |
NP-2/ 新国策2号 (sharp) |
UY-57, UX-56, UX-12A, KX-12F |
|
1942/昭和17年 |
Normal 10/ 標準10号 (sharp and Nanaola) |
UY-57A, UX-56, UX-12A, KX-12F |
1942.9 ラジオ受信機統制組合の設立 |
1947/昭和22年 |
Reference Public type-5/ 国民5号 |
UY-57A, UX-56A, UX-12A, KX-12F |
|
メーカ側は並4の規制に反発する一方で時局に合わせ国策に協力するため,自主的に並4の新しい枠組みを定めたものと思われます。その第1号が放送協会T一型(国策型)と呼ばれる形式と推定されます。(この名称は青木守市氏の「古典級の並四球ラジオを復元して,テレビアン国策T型, モービルハム1992.1」に現れるだけですが)。T一型とは統一1号の意味かもしれません。時代は局型制定より前の1937年から1938年頃と推定されます。このラジオは,並4の低周波段の段間トランス(1:3)を廃止しCR結合に,電源回路のチョーク・トランスを廃止,ダイヤル部の金属製品をプラスティックにするなど省金属化を図っています。ただし,並4の成立条件を土台からひっくり返したため,段間トランス(1:3)の省略による感度不足やチョーク・トランスの省略によるハムの増大の問題をかかえました。
その改善策の第1段が,検波管UY-24Bの近代5極管のUZ-57による置き換えで,これが国策1号と呼ばれました。UZ-57は1932年に国産化されながらコストの点で採用されないでいた球ですが,増幅度や内部抵抗が2〜3倍大きいので感度やハムの点では有利でした。もちろん,国策に沿ってさらなる省資源化も進められ,この時期にシャーシの小型軽量化が図られ,キャビネットの床面積一杯のものがほぼ半分になりました。
Televian 国策T10 (1939.12); 24B, 26B/56, 12A, 12F
Televian 国策T20 (1939.7) ; 57, 56, 12A, 12F
Nanaola 国策2号 (1939.4) ; 57, 56, 12A, 12F
Area 国策1号 (1939.1) ; 57, 26B, 12A, 12F
Area 国策3号 (1939.1), 国策KS20号(1939.7) ; 24B, 26B, 12A, 12F
Area 国策 (1939.7) ; 24B, 26B, 47B, 12F
Area 国策30号 (-) ; 57, 26B, 12A, 12F
Area 国策47 (1939.8) ; 58, 57, 47B, 12F
Area 国策 KS-50 (1939.5) ; 57, 26B/56, 12A, 12F
Area 国策 KS-100 (1939.5) ; 57, 56, 47B, 12F
National 国策1号(KS-1, 新KS-1) (1939?, 1, 7) ; 57, 26B, 12A, 12F
National 国策10号(KS-10) (1939.7) ; 57, 26B, 12A, 12F
National 国策2号(KS-2, 新KS-2) (1939?, 1, 7) ; 58, 57, 26B, 12A, 12F
Sharp 国策2号 (1939.3) ; 24B, 26B, 12A, 12F
Sharp 国策1号 (1939.4) , 新国策1号 (1940.1) 57, 26B, 12A, 12F
Sharp 国策3号 (1939.9) 58, 57, 26B, 12A, 12F
Sharp 新国策10号(1939.10) , 57, 26B, 12A, 12F
Wave 国策1号 (1939.7) ; 57, 56, 12A, 12F
さて,政府が法律で規制を始めた1939年8月以降に,並4ラジオはさらに低周波増幅管UX-26BをUX-56に変更し増幅度を高めることにより,ようやくCR結合の並4形式が完成しました。名称も局型で欠番になっている2号に習って新国策2号と命名されました。
その後,並4はさらに贅沢な肉の切り落としに掛かるマイナ・チェンジを行いました。パイロット・ランプを1つに減らし,検波管UZ-57を省ヒータ電力のUZ-57Aに変更,+B電圧を下げるなどの対策で,トランス巻線を少なくしました。検波管の高周波チョーク・コイルもありません。バリコンも金属フレームが小さくなりました。アンテナ切り換えスイッチもありません。局型11号に習い標準10号という名称が与えられました。しかし,オート・トランスではありません。
並4を含めた民生用ラジオは,工場の軍事徴用や戦災などで1944年頃に一時中断しました。
国策ラジオ
(1)並四ラジオ
並四ラジオは国民的標準ラジオだった。昭和5年頃から普及したが,S管のラインアップは昭和9年まで使われた。27A,26B,12A,12Bのラインアップは昭和9年に完成。廉価になり,普及した。AFT2個,CH1個,PT1個を必要とし,重い。廉価な鉄材が豊富に使われた。1:3のステップアップ2段で,ゲインを稼ぐ。抵抗結合では並四は成立しない。低インピーダンスの3極管を2段増幅では。
5極管はゲイン稼げ,抵抗結合可能。手っ取り早いのは検波管に5極管を使う方法。
27A-->24B
の置き換えは,テレビアンは1935年頃,ナナオラは1936年,アリア,ナショナル,シャープは1937年初頭から始めた。価格の問題があった。57はメーカにより1937年中ごろから登場する。価格が高い。
全抵抗結合のものが作られたのは,各社とも1939年からで,アリア,ナショナル,シャープがはじめ,テレビアンは1939年の半ばである。ナナオラも遅かった。
終戦後,GHQの占領政策が始ると,ラジオの生産は省資源化から増産に向けられました。戦災で多くのラジオが失われましたが,GHQは新たに400万台程の生産が必要と見積もったようです。占領政策下でも戦前の真空管の価格統制などが1950年まで続けられ,放送協会の規格統制も生き続けました。ラジオには相変わらず「放送協会認定」の印が付けられました。各メーカは生産を再開したものの,部品が入手できず1945年中は僅か1万6千台に過ぎませんでした。この時期,東芝などの大手真空管会社は,戦前からの夢だった6.3V化を果たすべく旧来の並4用球を保守品種とし生産を後回しにしてしまいました。この時に戦時中に補修部品の跡切れ故障したままのラジオはかなり解体され,リサイクルに廻されたものと想像されます。
放送協会も1946年には真空管製造業界の意向を組入れ6.3V管または12V管を採用した,4種の高1ラジオの国民型1号から4号を発表しました。
Name |
Year |
Type |
Tubes |
Speaker |
Public type-1/ 国民1号 |
1946/ 昭和21 |
Transformer- less Four Tube TRF Kouichi/ トランスレス高1 |
12Y-V1, 12Y-R1, 12Z-P1, 24Z-K2, B37 (same as BS-123)局型123号に同じ |
Magnetic/マグネティックSP |
Public type-2A/ 国民2号(A) |
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6.3V Four Tube TRF Kouichi/ 6.3V 高1 |
UZ-6D6,UZ-6C6,6Z-P1,KX-12F |
Magnetic/ マグネティックSP |
Public type-2B/ 国民2号(B) |
|
12V Four Tube TRF Kouichi/ 12V 高1 |
12Y-V1,12Y-R1,12Z-P1,KX-12F |
Magnetic/ マグネティックSP |
Public type-3/ 国民3号 |
|
Transformer- less Four Tube TRF Kouichi/ トランスレス高1 |
same as Public type-1/国民1号に同じ |
Dynamic SP/ ダイナミックSP |
Public type-4A/ 国民4号(A) |
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6.3V Four Tubes TRF Kouichi/ 6.3V 高1 |
UZ-6D6,UZ-6C6,UZ-42,KX-80 |
Dynamic SP/ ダイナミックSP |
Public type-4B/ 国民4号(B) |
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6.3V Four Tubes TRF Kouichi/ 6.3V 高1 |
same as Public type-2A/国民2号(A)に同じ |
Dynamic SP/ ダイナミックSP |
Public type-5/ 国民5号 |
1947/ 昭和22 |
2.5V Four Tube Namiyon/ 2.5V 並四 |
UZ-57A,UY-56A,UX-12A,KX-12F |
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Public type-6A/ 国民6号(A) |
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2.5V Four Tube Namiyon/ 2.5V 四ペン高1 |
UZ-58A,UY-57A,UY-47B,KX-12F |
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Public type-6B/ 国民6号(B) |
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2.5V Four Tube Namiyon/ 2.5V 四ペン高1 |
UZ-58A,UY-57A,3Y-P1,KX-12F |
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1946年の発表には並4はありません。もう高周波なしは認めないぞという意志の現れです。しかし,国民はこれを素直には受入れませんでした。トランス・レス・ラジオは感電するので保守が大変で,おまけに電力事情が悪いので働きません。6.3V管のラジオは何のメリットもありませんし,かえって旧来のラジオの補修が後回しになるだけです。この年,生産されたラジオは67万台で,一方ラジオ球は260万本で戦前の1/3に過ぎず,全て高1ラジオに廻しても65万台分にしかなりません。この年は深刻な球不足になったそうです。大手真空管会社だけでは製造が間に合わず,ベンチャー小メーカが群発しましたが,もっぱら旧並4球を製造しました。ラジオ・メーカは6.3V管を用いた国民2号,4号などを生産したようですが,結局,球不足も手伝って並4も生産されました。
翌年の1947年には,形式的なことを言っても事態が改善されないことに気付いてか,放送協会はようやく並4を認知し,標準10号相当のラジオも国民5号と名付け,また旧来の2.5V管を用いた局型3号相当の高1を国民6号としました。真空管メーカは当初6.3V管を主流に生産し,2.5V管は保守用として後回しにしたのですが,真空管不足も手伝い,ラジオ製造メーカは保守用の真空管にまで手を出しました。というよりも新興真空管メーカは2.5V管しか製造していなかったのです。この年,ラジオ球の生産数はようやく761万本と戦前の水準にまで回復したそうです。球から計算するとラジオの生産台数は170万台位と思われます。
私は初版で,「戦時中の標準10号(戦後の国民5号)相当の並四なのに国民2号と称する松下製のラジオが現存する,この矛盾はどこで生じたのでしょう?」と書いたところ,ラジオ工房の内尾さんからそれは戦前の製造であって,松下は戦前に国民受信機と名付けて販売していたと指摘頂きました。当時は資料といえばラジオコレクターからもらった写真だけでしたので,そんな混同を生じてしまったのですが,もし現物が手元にあったら,会社名の表示を調べれば,同じ松下でも戦時中なら松下無線,戦後は松下電器産業と区別できたかもしれません。読者諸氏よ,私が書いたこともあまり信用なさらぬように。
こうして,放送協会による国民型ラジオの政策は決着したかに見えましたが,それも束の間,1947年10月のGHQによる再生検波ラジオの禁止の勧告により一挙に崩壊し,メーカは事実上旧形式のラジオを作れなくなりました。ついに日本伝統の並4と高1の歴史は公式に終わりを告げたのです。マイナーなラジオ・メーカはスーパー用の部品が入手できないので,その後も1948年から1949年頃に少量の並4,高1を作り続けました。
ところが,戦後はラジオ・メーカだけでなく,かなりの数のアマチュアがラジオの組み立てに専念しました。部品メーカも数多く現れ,スーパ時代になってからも並4,高1のコイルやバリコンは相当数作られたようです。補修用に必要だったのは勿論,新規組み立てにも使われました。キットも登場し,実に1960年頃まで木製キャビネット入りのST管式ペントード並3,高1ラジオが販売されました。また教育用の組み立てセットは中学校などに1960年代後半まで生き残りました。ただし,残念なことに,1950年代から1960年代の並3,高1には昔の美しい木製キャビネットが欠けていました。