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この項を書き記すに当たり,双葉電子工業,小泉直彦氏(元日立製作所,元双葉電子工業,現電子管史研究家)から,千葉県茂原市の双葉電子工業,東京真空管,理研真空工業のコメントと文献提供をいただきました。ここに謝意を表します。
民生管では国内トップの大メーカ。戦前の送信管5社委員会のメンバー。戦前の主力工場は川崎市堀川町と姫路市。戦後は傘下の東京真空工業TVC(千葉県茂原)でも製造。
1890年白熱舎,1896年東京白熱電灯製造誕生し事業を継承,1899年に東京電気と社名変更。その後,1939年に東京電気と芝浦製作所合併し,東京芝浦誕生(電子管の歴史)。しかし,1941年5月の電子通信学会事業維持員の会社名名簿には,東京芝浦電気(株)(東京市京橋区銀座西5-2)と東京電気(株)(川崎市柳町1200)とがなお並記され,事業種目は前者が「各種機械機具製造販売」,後者が「無線機器,真空管製造販売」とある。つまり1941年にも真空管部門は東京電気(株)として存続し1943年6月頃になって東京芝浦電気に吸収合併し,東京芝浦電気(株)通信工業支社となった。なお,1941年頃の東京芝浦電気(株)には川崎にマツダ支社がありマツダランプ・マツダ真空管製造元という広告を出していた。
(真空管の製造)東京電気は1900年代に米国GEと技術提携。後に合併する芝浦製作所も同じ。1910年,ブラウン管の研究開始,1915年にラングミュアの3/2乗則に従うハードバルブの日本特許が成立し,その行使権を入手。国内他社の参入は1935年2月まで制限された。1917年オーディオン開発,1919年に海軍から技術導入。
1923年,民生用のUV200,UV201国産化。このとき,初めて「サイモトロン」CYMOTRONを標記。「波-器械」=「電波の器械」という意味だったそうだ。東京電気のロゴは丸に横書きの「TEC」。1924年ハルの遮蔽格子4極管の日本特許を取得。以後次々とGEのちにRCAの受信管を独占的に国産化して供給した。また放送局用の大型送信管も製造した。
1920年代後半から1930年代にかけて日本独自のラジオ球も数々開発した。これらは,米国球の国産化の際に国内事情に合せた球として開発。東京電気は1932年春にサイモトロンに代わり「マツダ真空管」になった。マツダはメソポタミア・シバ神の光の神様の名称で,以前から電球に使われていたブランド名。ロゴは丸に縦書きの「マツダ」。
戦前のラジオでは,「マツダ」の球が一世を風靡し,シャアを独占した。当時有名だったナナオラ,早川シャープ,松下無線,大阪変圧器などのラジオにもマツダが使用された。1935年春にナス管はダルマ管に,管名も3桁の数字KX-112Bが2桁のKX12Bというように変更された。
戦時中は,1943年に陸軍用のHシリーズ管,1944年には航空機用のソラなど特別な仕様の球も開発したが,軍用に生産した多くは従来品種であった。この頃東京芝浦はマツダロゴを廃止して2枚羽のプロペラのような「サイクルマーク」をロゴとしてガラス管に印刷された。1944年には民生用管の資材が配給されなくなり,民生用管の製造は事実上スットプした。
戦後は,民生用管の生産を再開するとともに,戦災にあった製造工場の復旧に努めた。RCAは東芝が戦前にGE/RCAと結んでいた特許契約を見直し,各社と個別に契約を結び直し,東芝の独占体制は崩れた。また,生産体制が整わない間に民間の4畳半的群小工場があふれ出た。東芝はこの間マツダロゴを復活し,再び,ラジオ球の他,MT管,TV時代でも業界をリードしていった。1940年代後半はまず独自のラジオ用ST管,GT管を開発したが,GT管はやがて米国互換品種の路線に切り替えた。TV時代の幕開けとなった1952年頃には,RCAと技術提携を結び,多くのMT管の品種を国産化し始めたが,同時に国内向けの独自の球も数多く開発した。1950年代後半になると,ラジオ・メーカが傾き,ナナオラ,山中電機テレビアンなどを吸収した。
1959年にマツダロゴを廃止して東芝のローマ字ロゴとした。1960年初頭に国内白黒TVの大型化が始り,白黒TVセットの対米輸出も拡大,日本の受信管生産数は1963年頃に世界一となった。その頃から米国のTVメーカは白黒TVの生産を中止した。1960年代中頃には,国内TVのカラー化と白黒用の輸出で国内管球メーカは活気に満ちていたが,米国の中堅管球メーカは1960年代後半には受信管製造から撤退した。
東芝は国内トップ・メーカとして,1960年代前半からカラーTV用受信管のシェアを延ばした。国内OEM製品としては,シャープ,サンヨーに球を供給した。知名度と供給力に優れており,TVは自社製品が好調で,またサンヨーにもOEM供給した。また,ヤエス無線などの特注品6JS6A,6JS6Cなどは東芝ブランドのまま供給した。
その後,日本では1960年代末から1970年代初頭にかけてカラーTVが完全にトランジスタ化され,受信管の国内需要は一挙に無くなった。東芝は1970年頃に自社TVの全製品をトランジスタ化した後,遅れた国内他社に球を供給したが,国内でも1972年頃には完全にトランジスタ化した。しかし,米国では大型ブラウン管を採用していたこともありトランジスタ化が大幅に遅れたため,東芝は国内終了後も輸出用の生産を続行し,1970〜1973年頃には自社では用いなかった欧州系のPL509,PL519なども生産した。その後の民生用受信管の需要は,半導体化の遅れたアマチュア無線などに限られ,一般受信管の製造終結は1975年。
東京都狛江市。大津市(新日本電気)。
送信管5社委員会のメンバー。電電公社用業務管供給3社のメンバー。
1899年(M33.7)三吉電機閉鎖跡に誕生。米国WE(Western Electric Company)の合弁会社として誕生。1918年(T7.4)WEはIWEを設立し株式を移譲,1924年IWEはITT(International Telephone and Telegraph)傘下となりISE(International Standard Electric Corporation)を設立。1929年通信用球の国産化計画。真空管製造に関する東京電気の特許支配はWEの実施権を持つため受けなかった。ISEは1932年,住友に経営依託。1931〜1933年にWE101D相当管を国産化。送信管製造は,1933年で,フランスのLCTから送信管の技術導入より始る。1935年,GEの特許が切れると製造が本格化した。1936年玉川工場新設。戦前はWEの通信管を国産化,独占的に供給した。
1941年12月大平洋戦争開戦とともに資本提携解消。戦時中は,1943年2月に名称を(住友通信工業)に,住友通信工業の名の入った球を製造した。受信管では,航空用エーコン管,メタル管などを作った。1944年には大津製造所が作られ,軍用の受信管の大量生産を始めた。
戦後,1945年11月再び日本電気を名乗り,業務用の分野ではNTT用の通信管や送信管を開発製造した。一方,戦後,民生用管にも参入した。Ut-6L7G他10種程を生産。1940年代後半,国内他社に先駆けてMT管の大量生産に入ったが売れず,経済危機にひんした。1949年頃,幾つかの工場を閉鎖し,民生管は大津工場に集中,独立採算性を取らせた。1951年11月ISEとの資本提携復活。
朝鮮戦争勃発とともに国内の景気が回復しラジオブームが訪れ,救われた。戦争の終結した1954年に子会社として独立,新日本電気が誕生した。その後,ラジオ用MT管に引続き,テレビ・ブームが訪れ,TV管のシェア争いに加わり東芝を追撃した。民生管の生産はその頃も日電,新日電の双方が関与していたが,1950年末に全て新日電に移管された。
新日電は,TV時代の1956年頃に,東芝,日立,神戸工業がRCAと提携したのに対して,米国シルバニアと1956年7月に10年契約で技術提携し,真空管部門の技術力も向上した。このお陰で,他社と異なる品種も国産化,生産した。しかし,民生用管ではNECの知名度は低く,価格は東芝,松下よりも安かった。自社のTVのシェアも低く,サンヨーなどのOEM製品に徹した。オーディオではラックスのOEM製品などが有名。アマチュア無線では,TV球6JS6Cなどが使用されていたが,東芝が終結した1975年以降,ヤエス無線などの受注でNECブランドのまま供給した。新日電の受信管の製造終結は1978年頃である。
(電子管の歴史,資料編に,新日本電気の受信管は「1969年に韓国三星に移管」,との記事あるが,1970年代に入っても50CA10などは明確に製造していたし,1970年代開発の8045Gや6JS6C(特殊仕様)などは新日本電気,日本製である。6JS6C(特殊仕様)の終結は1978年頃と見られる,移管は1979年のミスプリと見られる)
千葉県茂原市
理研真空工業(株) 東京市日本橋区呉服橋 (1941.5 電気通信学会事業維持員会社名簿より)
理研真空工業は1935年,ラングミュアの特許が消滅した年に誕生。理研真空工業は千葉県茂原市(旧東郷村町保)に工場を設置し電球を製造する中,1936年から真空管も製造。受信管以外のものを作っていたとされる。1942.1の広告には観測用ブラウン管の絵が掲載されている。戦時中は電波兵器用真空管(受信管を含む)を製造。理研真空工業の名称ではUy-14M,UN-955等のマツダ系の軍用球が知られている。1943年に日立製作所に吸収合併された。戦後,吸収合併された理研真空工業は他の中小真空管製造会社と同様に1948年に再設立され,RIKENブランドで真空管を販売している。
日立製作所は,送信管5社委員会のメンバー。開戦時の1941年12月に軍需工場建設の目的で千葉県茂原市別地の土地を入手,戦時中に工場を建設,1943年に理研真空工業を吸収合併し1943年軍用送信管製造開始。1944年9月に茂原工場創業開始。電波兵器用真空管(受信管を含む)を製造。日立ブランドのUN-955等を製造している。戦後は一般ラジオ受信用のST管なども製造。1947年電電公社用業務管製造開始。供給3社のメンバー。戦後,日立は民生用ラジオ球を生産開始したが,受信管製造部門は自社製ラジオの販売が不振だったため市場への供給量は僅かだった。また戦後日立は,ブラウン管の製造では,TV時代が始った1950年代初期には国内では唯一社であり,国内TVセット・メーカに独占的に供給した。さらに,TVセットの製造に関連して1952年頃にRCAと全面技術提携した。このため,真空管部門の技術力も向上したが,提携料が工場出荷額の5%に及ぶ高額だったため,もっぱらRCAの品種を製造,輸出で得た外貨で支払うという自転車操業となった。
受信管と並行して,送信管やNTT向けの通信管部門もあった。通信管部門の技術レベルは,戦後から1950年代はNECと比べて遅れが目立ち,同じ品質の球が製造できるようになったのは1960年代からと思われる。
1950年代後半から国内のTV需要が好調になると,日立製のTVのシャア獲得に成功し,幾つかの独自の球も開発するようになった。また,自社のTVセット用だけでなく,早川シャープ用の球をOEM供給するようになった。日立が受信管製造から撤退した時期は1973年,送信管は1976年。
1920年,川西機械製作所創立。1935年。ラングミュアの特許が消滅した年に真空管製造開始。神戸工場で,C204, C202Aなどを製造。岐阜市。神戸市。送信管5社委員会のメンバー。1947年電電公社用業務管製造開始。供給3社のメンバー
戦前から送信管などを製造し,戦時中には軍用管を製造した。戦災で岐阜工場を焼失。戦後,1947年にはNTT向けのCZ-504D,1948年にはCZ-501D製造開始。
民生用受信管は1937年12月,神戸工場で,UX26B, KX80, KX-27A?, UY-24B, UY-56を製造開始。戦時中を経て,戦後,1945年,神戸でラジオ用民生管を製造。明石工場ではラジオを試作,販売。1946年にはUZ6C6他4種,1947年にはKX5Z3,UX-2A3,6Z-P1など6種を製造。1948年には独自のトランスレスGT管や米国型6.3VGT管を製造。1949年,財閥解体により解散,神戸工業TENが新たに設立された。自社製ラジオを販売するとともに,ラジオ管を供給した。1950年代にTV時代に入ると,RCAと技術提携を結び,品質を改善したが,受信管部門ではNEC同様に国内知名度が低く民生管のシェアの確保は苦しかった。自社のTVセットは不振に終わったが,代りに八欧電機(ゼネラル)のTVセット用真空管をOEM供給した。このため,1960年代の品種乱造時代には追従できず,限られた標準品種を製造するに留り,実売価格もNECと並んで安かった。面白いことに,1960年頃のカラログには,東芝だけが製造したと思われたオーディオ管6R-P15が掲載されている。1968年神戸工業は富士通に吸収合併されるが,真空管製造部門は存続し,以後,FUJITSUブランドで製造,ラジオ部門は富士通テンに分社,受信管の製造は1975年に終結。送信管は1990年代でも継続。
東京都三鷹市,長野県諏訪市。浜松市。
送信管5社委員会のメンバー。
1915年誕生。ドイツ・テレフンケン社と技術導入契約。国内通信事業のうち交換機の分野で日本電気と2分した。真空管製造は,東京電気に次いで早く,1918年検波受信管C1を完成したが,東京電気の有するGEの特許の行使権の関係から国内での活動は限定された。その後はもっぱら送信管に専念し,1921年入力10Wの送信管TRIを試作。1922年入力100W,250W,500Wの送信管を発売。生産高は特許が切れる1935年まで制限された。
送信管の部門では,特許が切れた後に本格的な製造を始めた。また受信管は主に軍用管を製造した。テレフンケンの球を国産化したものが有名で,1940年,RV12P2000類似の航空用受信管RE-3*を開発製造,ついで万能受信管NF-2を国産化,1941年には**,NF-2を発展させた航空機用の万能管FM-2A-05Aを開発。
戦後,民生管の製造に乗り出し,軍用管に使われていたボタン・ステムの技術を用いたラジオ球NシリーズGT管をいち早く完成(1945年12月),発売したが,時期が早すぎ,自社製のラジオに僅かに用いたに留った。その後,民生管の製造は子会社の諏訪無線が担当し,一般のラジオ用ST管を製造した。JRCブランドの受信管は1953年に終結。以後,ラジオ用ST管等はSUWA MUSENのブランドで流通。1940年後半から1950年代にかけて,結構なシェアを持っていたが,ミニアチュア管の製造には消極的で,ミニアチュア管の品種が爆発的に増えたTV時代(1950年代末)には,受信管製造から撤退した。諏訪無線の受信管製造の終結は不明。
日本無線は受信管製造から撤退後も,真空管製造に必要なゲッタ製造の技術を持っており,同社のゲッタを真空管時代が終わる1970年代まで国内各社に独占的に供給し,国内民生用球の製造に貢献したことが知られている。
**)1941年には海軍軍艦用にSA-7とも書いたが,現在出典を再調査中。
*) 当初12D-2000と記載しましたが,がーさんmixseeds@seaple.icc.ne.jpから,RV12P2000が正解とのコメントをいただき,修正しました。感謝。
大阪府。
1918年誕生。戦前はラジオを生産し知名度が高かった。真空管の製造を始めたのは戦時中の1943年で,日本無線JRCの航空機用(軍用)の受信管FM-2A-05Aを製造。1944年から出荷。マツダのソラも作ったという未確認の話も残っている。
戦後は民生用のラジオ球を製造。ラジオ球製造の初期からNHKなどと共同研究をおこなったり,一貫して判りやすいロット番号を表示しており,同社の開発意欲と品質管理に対するしっかりとした姿勢が伺えた。初期の頃は,戦前からの国内ラジオ球と米国系のGT管を作っていた。1950年には東洋電波(レックス)を買収,ナショナル・ブランドの受信管を作らせる。しかし,TV時代に入った1951年頃には,TVの5大特許の2つを持つオランダ・フィリップスと技術提携し,松下電子工業を設立,1954年頃には大工場が完成し真空管製造を大々的に開始する。ブランド名はナショナルを使いカタカナに丸ののロゴを使用,箱は松下電器産業と松下電子工業の並記であった。1968年頃から数年間,輸出向けに使用していた三松葉ロゴを国内でも使用したが1970年代に再びナショナルロゴに戻った。真空管製造技術は飛躍的に向上するとともに,戦前から知名度が高く販売網がしっかりしていたので,1950年代半ばには民生管の大手メーカに伸し上がった。主に自社製品用の欧州系TV球を生産していたが,1960年代後半からは,フィリップス系の海外管球メーカにもOEM供給し,また品種の整理のため,国内メーカにも一部製品交換した。製造の終結は東芝よりも遅く1979年(1978年頃を修正)である。
京都府
1944年,真空管(エーコン管)製造開始,1947年,ラジオ管KX12Fなど製造開始,1950年,松下電器産業の100%資本の子会社に。レックス・ブランド終了。ナショナル真空管製造開始。1956年には真空管の金属部品製造会社になる。1957年には松下電子工業傘下に移行。T管の製造開始。
京都市
1921年誕生。戦前には,通信用業務用管(整流管など?)を作っていた。受信管は戦後1945年から終戦の一時期に,民生用ラジオ向けにUZ-42などを製造したが,その後,受信用真空管の製造から撤退し,自社製ラジオやTVなどには他社の球を使用していた。通信機部門では,送信管は1950年から製造を開始,業務用の整流管などを製造していたが,ところが,1950年代後半には国内のTV需要が好調で真空管の供給不足が深刻になると,受信管の自社製造に方針転換し,1950年代末に再び参入した。これは,日本では最後の大資本参加となり,1962年に大工場が完成し自社製品用に標準的なTV球を生産し始めた。しかし,この頃は時既に遅く,米国や日本では真空管産業の危機説が流布されており,国内でも開発部門の解散や製造品種の整理などが行われた。送信管の終結は1962年。受信管はしかし,米国では1960年代中頃に撤退したメーカが多いのに対して,その穴を埋める形で輸出は上向き,またカラーTVの輸出が好調だったため,日本メーカの危機は10年ほど後になった。しかし,三菱の受信管は自社製TV以外に需要が無かったため,品種が増加した1960年の後半には,結局自社製造を諦め,1968年に受信管製造を終結,NEC(新日本電気)のOEM製品を用いた。
東京都大田区新井宿5-569 宮田繁太郎(1951.3 CES 会員名簿より)
1917年設立。1920年代の始めに米国WE(western Electric)の真空管製造を巡る特許実施権を持つ日本電気の代理実施権を持ち,GEの真空管製造の基本特許を行使する東京電気(マツダ)からの特許権による支配を唯一逃れ,東京電気と対抗しながら米国の各種ラジオ球を国産化製造した中小会社。時にはマツダより早く米国の新型球を国産化したこともある。戦前は,安田真空管(ベスト)と並び中小会社のリーダー役を勤めた。
ブランド名はElevam, 廉価な2級品はELXというブランドを使った。1939年頃の放送局型トランスレスラジオ時代には日本放送協会とマツダが開発したラジオ用管を製造するとともに,12Y-L4という独自の球も製造販売した。1939年から1941年までは東京近郊の中小8社で東京真空管販売を結成し八曜真空管ブランドでも出荷した。ただし,この頃でもElevam単独の広告は掲載している。戦時中(大平洋戦争開戦以後)は海軍用球を製造。空襲で工場を全焼。戦後,補償打ち切りにあうが,工場を再建し,ラジオ用ST管を製造。1948年8月には5万本近く生産できるまでに回復。
群小メーカが消滅したMTラジオ管時代の1955年頃にはMT管製造に参入したがシェアは伸びず1960年頃はElevamブランドはST管が辛うじて売られていたに過ぎない。TV時代前半には影が薄かったが,TV時代後半になって,東芝の生産設備を一部譲り受け,保守用のミニアチュア管やマグノーバル管なども製造した。時期は定かでないが真空管製造から撤退した後,パーツ会社となった。社名はエレバムに変更し,現在にいたる。
東京都荒川区三河島町5-246。(1949 REA)
1920年代の始めに東京電気からライセンスを受け,各種ラジオ球を製造した。安田電球製造所(1926年),安田真空管工業(1928年)。安田真空管(1939年),戦後,安田真空工業,ベスト真空管製作所(1952.1)。
戦前は,エレバムと並び中小会社のリーダー役を勤めた。戦時中は在京8社とともに営業権と工場を東京真空管に譲渡し,一旦途絶えた。戦後,復活し安田真空工業設立,ラジオ用ST管を製造した。戦前の老舗ではあったが,戦後の真空管競争時代,1950年代雑誌広告にあっては1953年になるとラジオパーツ会社川松電気商会が間接的にベスト真空管を謳った広告などが多くなり,苦しい経営事情が窺える。群小メーカが消滅したMTラジオ管の製造の分岐点で,ミニアチュア管も製造したが,TV管に手を出さぬまま大資本真空管製造会社の大量生産と廉価販売により1960年代に民生用ラジオ管製造から撤退したようである。現在,極小型電球,極細蛍光管,電子管材料などを製造。真空管の特注に応じるという話がある。
品川電機(1941.5)*, 東京市品川区五反田1-429,1951.3** 東京都品川区五反田1-429 国弘勤之忠
(*電気通信学会,**無線通信機械工業会の名簿)
堀川周二氏が1924年に堀川電気工業所を設立,ブランド名ケーオートロン(K.O.Tron)。1930年にケーオー真空管製作所と改名。ケーオートロン(K.O.Tron)は,ラジオ用真空管の分野では1920年代後半から1930年代前半にかけて,エレバム(Elevam),ドン(Don)と並ぶ有名なブランド名であった。ケーオー真空管は,日本独自の改良球を開発販売したことでも知られている。1931年東京電気に先駆けてUY-247を初めて国産,1932年には日本独自のUY-227Bを世に出した。日本独自の電池管UX-166, UX-167, UY-169を発表。電池管などを得意とした。1935年1月に品川電機(株)となったが同年末,ケーオートロンの創始者で堀川電気工業所以来社長を勤めた堀川周二氏が同社を離れ経営者が交代した。堀川周二氏は翌年の1936年新たに堀川製作所(Horizonブランド)を設立し非常な勢いでラジオ管を市場に供給し始めた。品川電機はその後どうしたか?というと,真空管製造を継続している。K.O.Tronのブランド名で新しい電池管UX-1K,UX-2K,UY-3Kや再生検波の無妨害を謡った明朗真空管UY-1A, 4A, 7A等を開発し宣伝した。
その後,品川電機は品川電機はブランド名「K.O.TRON」を廃止し,代わりに「トウ」を用いるようになった。1942年頃には「トウ」を名乗っていたが,いつ頃K.O.Tronを廃止したかは不明である。K.O.Tronの文字を見る最後は1939-1941年頃の八曜真空管の実物である。八曜真空管は東京真空管販売のブランド名で,在京の中小真空管製造会社8社が設立した販売会社で製造元の名が真空管に記されている。池谷理氏の受信管物語に紹介された8社には堀川製作所(Horizon)があるが,品川電機はない。しかし,K.O.Tronの名称を1939-1941年頃も品川電機が使用していたとすれば,この時期に品川電機がK.O.Tron名で製造し出荷したことになる。
品川電機の新しいブランド名「トウ」とは何か?これは東京電燈(東京電力)の子会社,東電電球のブランド名(トウ)と同じで,品川電機は東電電球の系列会社となったと考えられる。品川電機は1941年頃には東京市品川区五反田1-429にあった。営業品目は真空管製造の他,通信機,測定機とある。1942年に制定された日本標準真空管名制度に,マツダのレス管などと同時に,日本独自の整流管6X-K1を初登録した。その後,12Vの球12Y-H1, 12Y-R2も製造している。また業務用に特30を製造した他,軍用電真空管では日本電気(住友通信工業)のME-664A,米国のミニアチュア管1T4相当のB01等を開発,製造している。戦時中にはロゴを使わず,「品川電機」と漢字で記したものが製造されたようである。
戦後,品川電機は再びラジオ用ST管を製造した。1947年には放送受信用真空管を毎月3万本の製造をしたとある。またGHQから依頼を受けた輸出向けの電池管2Y-P8も製造した。ブランド名「トウ」のロゴは,戦前は丸にトウだったが,戦後は品川の字をあしらい上部に品を置いて川を丸めて3重丸とし,中にトウと入れたものに変わった。これが「新」トウのロゴである。戦時中製造したミニアチュア管を活かして,1948年に国内で初めての販売用ミニアチュア管BO3A,BO4を発表。その後も,ラジオ用ST管製造では活躍したが,1950年に,AC点火用の国産ミニアチュア管6BE6-6BA6-6AV6-6AK6-6X4のラインを製造したまでの記録をもって,再び忽然と姿を消した。無線通信機械工業会1951.3の名簿にはまだ名前がある。この時期,日本電気NECもミニアチュア管製造に乗り出し,売れずに経営危機に瀕したとあるが,品川電機の場合は本当に失敗してしまったらしい。品川電機は真空管製造から撤退した。会社はその後東光になったと伝えられる。またトウのランプは,東京電燈が戦後東光電気となり,1951年頃に「東光電気」とうい名称で「トウ」の名称のランプ,蛍光灯(米Sylvaniaと提携)などを作る会社になった。このトウは戦前のロゴと同じである。
(2003.11.29改定)(2004.9.5)(2004.9.25)
(1949)堀川電子管研究所,目黒区中目黒4-1384,(1951)堀川電子管(株),
K.O.Tron/品川電機(株)が設立された同じ年(1935年)の末に社長を勤めた堀川周二氏が同社を離れて,再び自前の会社を設立1936年,これが堀川製作所(Horizonブランド)であり,従来K.O.Tronで販売していた多くの真空管をホリゾンのブランド名で再び販売した。当時の通販カタログによれば一時はエレバムやドンと同様の品揃えであったが,1937年に日中戦争が激化,政府の統制が始まると,中小真空管製造会社は,真空管販売価格の統制,次いで製造のための資材調達などが統制され,会社の合併まで勧められる事態になった。池谷理氏の受信管物語では堀川製作所Horizonは,安田真空管Bestやドン真空管Donなどとともに1939年頃に東京真空管販売に加わり八曜真空管ブランドで出荷,さらに1941年には営業権と工場を東芝の子会社東京真空管(TVC)設立時に譲渡し,戦前の活動を終えた。
戦後,軍需体制から解放され,1947年頃に堀川電子管製作所を再開,Horizonのブランドで真空管を供給した。1950年頃には堀川電子管のホリゾンと品川電機トウの2つのブランド名が同じ市場に見られるのはおかしなことであるが,いずれもKOトロンの末裔と言えよう。ホリゾンは1950年代末まで真空管を製造,その間,UY-47S, UZ-42L, 6E5-Sなど変わり球も製造したが,その後民生用真空管から撤退し,以後業務用のNECの表示放電管製造などの分野に活動の場を移し,現在の(株)ホリゾンとなっている。現在も,真空管・真空ゲージ・蛍光体パネル・フィラメントカソード・金属印刷,分光用ガラスセル・ガス入り放電管・学校教材用電子管,ガス分析・ガラス耐圧試験管・真空脱ガス加工・開発試作真空管と手掛けているそうである。(2004.5.9),(2004.9.5),(2004.9.25)
(株)ドン真空管製作所 東京市品川区大井元芝町951 (1938.8ドン真空管カタログより)
日本真空管産業 東京都品川区南品川4-483 (1949 REAラジオサービスハンドブック)
無線枢機産業(赤ドン) 住所同じ
日本真空管実業(青ドン) 住所不明
1923年(大正13年)にタングステンフィラメントの特殊真空管を(製造して)無線用,測定用に各社各研究所に提供したのが始まり。1924年トリエーテッドタングステンフィラメントの201Aを発売。1928年酸化物陰極のUX-12A, UX-26発売,傍熱型UY-27, UY-24,その後,毎年4,5種類以上の新型球を発売。1933年UY-56, UZ-57, UZ-58の発売。このころは,(株)ドン真空管製作所。宮田エレバム,ケーオー真空管K.O.トロンと並んで中小の3大会社であった。戦前は民生用管を手広く製造,ラジオ用に電池管UX-111B, UY-111Bなど製造,1936年頃,UX-超45を発売。今でもオーディオ分野では有名。1937-8年にUZ-2A5B, KX-80K等幾つかの独自の球も製造。電極(プレート)にはDONの凸印がある。1938年にはカタログと称する今日のマニュアルを出版している。最盛期はそのあたりまでで,1937年に始まった日中戦争が激化し資材不足と統制の圧力に屈し,1939年には東京真空管販売に加わり八曜ブランドの製造元の1つとなり,1941年には戦争中は在京8社とともに販売権,工場を売却,東京真空管に吸収され,かつての製造設備は東芝傘下に納められた。
戦後は,ブランド名はドンのまま日本真空管産業で復活。しかし,ゼロからの出発と財閥系の会社日本電気NECも参入したラジオ用真空管の競争激しく戦前の勢いは取り戻せなかった。その後,兄弟で分裂し,「赤ドン(無線枢機産業)」ブランドと「青ドン(日本真空管実業)」に分かれた話が残っている。無線枢機産業は[DON Mott]と訳の分からないブランド名を付けていた。こちらは「ドン(赤箱)」と通販カタログで案内され,赤ドンと呼ばれたらしい。このDON MOTTはドン真空管と名乗り,エレバムやホリゾンよりやや遅れて1953年頃にラジオ用GT管を,またミニアチュア管も作り,1954年にはトランスレスの12BE6, 12BD6, 12AV6, 35C5, 35W4などフルメニューを揃えた。しかし,シェア争いは厳しく,老舗の通販カタログでは戦前の御三家ドン,エレバム,ホリゾンを並べる一方で,月刊雑誌ではロダン,TEN,JRC(諏訪)の新御三家を取り上げるなど,もはや戦前の名前では食べていけぬ時代にあった。TV用真空管の製造に手を出さぬまま1950年代後半になると大手製造会社の多量生産と廉価競争により生き残れなかった模様。「青ドン」は自ら青ドンと名乗った。しかし,青は緑箱であった。青ドンもミニアチュア管を製造した模様。ともにその後は不明。
東京都品川区大井林町282
サン真空管製造: 1927年誕生。サン真空管製造。GEの特許が切れた1935年頃には本格的にラジオ管を製造,ブランド名は(SAN)。戦前の活躍ははあまり知られていないが,日中戦争が激化し,在京の中小真空管製造会社が設立した東京真空管販売に参加し,八曜真空管のブランドで出荷した。池谷理氏の受信管物語で上がった8社の中に該当する名称が無いが,一時期社変更したのだろうか?八曜真空管参加各社は1941年に東京真空管TVCに吸収合併し消滅している。
丸山真空工業: 戦後,1948年頃には丸山真空工業として復活,
サン真空工業: 1949年頃から1951年頃までにはサン真空工業,
サン真空管製造; 1950年代中頃にはサン真空管製造という名称が使われている。戦前のブランド名(SAN)は戦後英語のSUNになった。なお,戦後,日本真空工業(株)がSUNTRONを名乗ったが,別会社と思われる。ラジオ用ST管を製造し,1950年代初期はマジックアイ,群小メーカが消滅した分岐点では一部MT管も製造した。1950年代中ごろには,Hi-Fiラジオ用に低雑音の6W-DH3Sや6AV6Sなる球も製造した。その後も,ST管ラジオのメンテナンス球を製造し,1960年代初頭まで活躍した。1961年の広告では「35余年の歴史と技術が誇る,全製品60余種」とある。その後の消息は不明。
東京市中央区銀座
欧州フィリップス製真空管の販売会社。1928年からフィリップス真空管「ミニワット」の啓蒙書「月刊フィリップスラジオ」を発行していた経済バルブ研究室の久保田雄三が,支配人となり,オランダフィリップスの真空管を輸入する会社。1930年から数年間活躍した。日本向け品種を製造し販売した。1931年,F169(UX226), F209(UY-227), D443など。1932年には我が国で最初に5極管を発売した。特にPH247, PH112KはUY-247, KX112B相当でオランダPhilips社の製品リストには無い,日本向けの真空管であった。知名度の低い欧州球の啓蒙運動を展開し,また高品質の欧州球は国内製造会社の脅威となった。国内真空管の東京電気(サイモトロン)の値下げ競争の火付け役となった。
1939年10月 東京真空管販売 安田真空管工業(BESTO/BEST)と東京芝浦電気
1939年10月 日中戦争の勃発(1937.7)により,政府より企業合同の圧力かかり,東京周辺の中小真空管製造会社は取りあえず販売窓口を一本化する東京真空管販売を設立。池谷理氏の受信管物語(31)によれば,宮田製作所(Elevam),安田真空管工業(Best),太田真空管,貝崎真空管,極東真空管,作古真空管,東京電波工業所,堀川製作所(Horizon)の8社が参加。共通ブランド名は八曜真空管だという。小丸を八つ円に配置したロゴであった。しかし八曜真空管の現物にはサン真空管が含まれている。1941年まで。
1941年2月から1945年まで。東芝は東京真空管販売の参加会社の営業権と工場を買収し,東京真空管を設立。歴史ある各社はここに一旦消滅。しかし,東芝は宮田製作所の宮田社長の役員就任の約束をほごにしたため決裂し,宮田製作所は参加せず。1944年から東京真空管にドン真空管,東京真空管工業が合流。
戦後,各社のうち,その多くは商標を復活し活動を再開。安田真空工業,宮田製作所,太田製作所,貝崎製作所,極東製作所,作古製作所,東京電波工業所,堀川電子管(Horizon),日本真空管産業(ドン真空管),東京真空管工業。
東京銀座・千葉県茂原 ブランド名はトーキョー真空管TVC
東京真空管工業組合: 東京真空管のルーツは1937年の東京真空管工業組合かもしれない。戦争準備のために政府が新しい工業組合法を施行し,これに対応すべく在京の中小真空管製造会社が東京真空管工業組合を作り,1937年4月に(東京ラジオ工業組合とともに)銀座に事務所を構え,翌年3月目黒(渋谷区)に移転した。この事務所は統制された資材の共同仕入れと配給を行った。さらに,政府は企業合同を勧め,在京の中小真空管製造会社は1939年にまず販売会社,東京真空管販売を設立して販売一本化,ブランド名八曜真空管となった。宮田製作所(Elevam),安田真空管工業(Besto),太田真空管製作所,貝崎,極東,作古,東京電波工業所,堀川製作所(Horizon)の8社。真空管は小丸8つ(八曜)に製造会社のブランド名があった。
日本真空管工業組合: 1941年になると,東京真空管工業組合は東芝他の大資本の真空管製造会社も参加して日本真空管工業組合へと拡大した。また政府の企業合同の波は在京の中小真空管製造会社を東芝傘下に結集させるストーリーとなり,1941年,各社は営業権と工場を売却し,東芝の子会社として新会社を設立。各社はここに一旦消滅。宮田製作所は東芝の非礼に怒り不参加。先の7社にドン真空管(Don),東京真空管工業が加わった。こうして東京真空管工業TVCが誕生した。戦時中の活動は何も情報が無い。そもそも戦前,戦中のラジオ管にTVCマークの真空管は存在しない。東芝のサイクルマークの真空管がそれかもしれない。戦時中は東京銀座のデパートの地下などに工場を移設したが,戦災で消滅。
トーキョー真空管TVC: 戦後は,千葉県茂原の東芝の工場を譲り受けラジオ用真空管の製造を再開,トーキョー真空管TVCブランドで東芝とは独立に販売を開始した。戦時下結集した各社のほとんどは戦後,もとの場所で復興を果たしたので,その時点ではトーキョー真空管TVCも中小真空管製造会社の1つに過ぎなかった。しかし,その後,ラジオブームが手伝ってTVCの真空管製造は順調に推移したようである。製品は製造再開した東芝マツダのものと造りが若干異なっていた。1950年代前半までは広告を出し,TVCブランドで販売した。1950年代中頃にはラジオ用ミニアチュア管も製造。箱には東京銀座と明記されている。しかし,この頃から中身は東芝マツダ製と全く同じ造りのものを出荷するようになった。もっとも,東芝マツダ製には同時代に幾つかの造りの違う球が出荷されており,複数の異なる工場が同じ品種の製品を並行して製造していたことになる。TVCもその頃から東芝の完全な子会社の1つとなり,1960年代のTV時代には自社ブランドの出荷は無くなり,完全な下請会社として機能した模様。
東芝コンポーネンツ: 1970年東芝コンポーネンツと名称変更,1976年受信管製造終結。(東芝と同じ)
千葉県茂原市高師870番地(本社), 茂原工場;茂原市大芝629番地, 早野工場; 茂原市早野新田59番地, 東京支店; 千代田区外神田5-1-15(1967の資料)
1948年2月3日設立。戦後の設立で成長し有名になった真空管製造会社。立地条件として,大メーカの東芝(系列のTVC/東芝コンポーネンツ)と日立の工場に隣接しており地の利が良かった?。設立当時はラジオ用ST管を製造していたが,群小メーカが消滅した分岐点,1953年頃からのラジオ用ミニアチュア管時代にも追従して製造しただけでなく,さらに1956年頃から始まったTV時代のミニアチュア管の大量生産と廉価販売にも生き延びた。1958年東京タワーに双葉ショールームを開設,通信機,ラジコン,プラモデルの販売用に1961年東京秋葉原に万世ショウルームを作った。1963年から1967年にも工場を増設して真空管を増産している。製造品種はラジオ用,TV用の民生管で,各社が製造した主だった品種をカバーしている。同じミニアチュア管でもかなり新しい品種も製造した他,マグノーバル管も製造しているのは驚異的である。1966年には月産120万本の記録がある。1960年代後半はほとんどが輸出用だったとされる。蛍光表示管は1968年から量産を開始。受信管の製造は1970年に終結。その後,国内真空管産業が消滅した1970年代以降も,蛍光表示管,ラジコン用機器などを製造して,生き延び,現在にいたる。
長野県岡谷市
昭和電機製作所: 1939年東京に昭和電機製作所設立,
東北電気無線: 1943年東北電気無線と名称を改め,東京芝区で海軍管理下の軍需工場として電波探知機用特種真空管の真空管の製造開始。(UN-954,UN955)。1945年3月25日空襲で工場焼失し,天然ガス源のある長野県岡谷市に移転,準備中に敗戦。
岡谷無線: 1946年本社を東京から移転し,岡谷無線と改称。1946-1948年にラジオ用真空管の再生事業を行う。オカヤ,ロビンを使用し,1949年にロダンRODINブランドを登録。戦後真空管ブランドで有名になった。始めラジオ用ST管を製造し,1950年GT管製造,群小メーカが消滅した分岐点のラジオ用MT管時代にも追従した。1951年に,ラジオ同調管を独自に開発したことで有名。TV時代には多品種の真空管製造を諦めて,ラジオ管や同調指示管などを製造した。受信管は1960年に生産調整となり,1962年に終結。その後,業務用の特殊な指示管も供給した。真空管産業が消滅した1970年代に,オーディオマニア用にHF-300Bを製造したことでも有名になった。
(1942.1)東洋無線;東京都世田谷区若林町75/(東洋電気)荒川区尾久町6-58
日本真空工業: 合資会社日本真空工業はいつ誕生したか定かでないが,1942年1月,本社,工場とも若林町にあり「短波送信真空管,短波受信真空管,電圧安定管」の広告を掲載。戦後,日本真空工業(株)がSUNTRONを名乗ったが,どういう関係か不明。また戦前の日本真空工業は東洋無線工業と同じ若林町にあったが関係があったかどうか不明。
東洋無線工業: 戦後,東洋無線工業(世田谷区若林町),
東洋無線(株): 後に名称を東洋無線(株)に変更。戦後はラジオ用ST管やGT管を製造していたが,1952,3年頃に特に同調指示管6E5-Dと6E5-Mで有名になった。カタカナのトーヨーのブランドを使用し,ラジオ・セットも販売した。なお,同じトーヨーのロゴを使用したラジオのダイヤルメカを販売した会社は東洋電気(株)で荒川区にあった。東洋無線は群小メーカが消滅した分岐点で,通常の真空管製造から撤退し,もっぱらラジオ,TV用の同調指示管を一手に製造し真空管製造各社にOEM供給した。1970年頃にはマジックアイ製造も終結し,通常のパーツメーカとなった。
なお,戦前にトーヨーブランドの真空管があった。これは上記の会社とは無関係のようである。戦前の東洋電気(1925)は後に東洋真空工業(1931)を経て理研真空工業,東京真空管へと発展,消滅している。ブランド名はオリエント,ヒノマル,トーヨー,コロナ,ダーソンなどを使用した。(宮川氏の御研究)
東京都品川区平塚6-9-7,
日本光音工業: 日本光音工業は1936年にはあった。写真伝送無線機器等を製造したらしい。1943年1月,日本光音工業(株)は東京,大阪,名古屋,福岡,札幌,京城,新京,台北に営業所(出張所?)を持つ会社で,各種真空管を製造する会社だった。製造した球はかなりの大きな出力管の写真が出ている。この会社は戦後,太陽電子研究所,後のアポロ真空管に引き継がれたらしい。
太陽電子研究所, アポロ真空管: 戦後はサブ・ミニュアチュア管を得意とし,1950年代半ばに電池管式ポケットラジオが流行し,東芝は1955年頃に25mAのSFシリーズのフィラメントを開発したが,アポロはポータブル・スーパー用のサブミニュアチュア管として,7PINのMT管ベースを履かせた17M(1R5相当),15M(1T4相当),15DM(1S5相当),15PM(3S4相当)を作った他,13M(3極管),13MB,15MB,6N3A,SFシリーズのヒータを使った14M,16Mなどの真空管を開発,市販したことで有名。その他のリード線タイプのサブミニ管SFシリーズも作ったらしい。1N5-SFなども知られている。
八光電機(株)品川区平塚4-20,と関係ありや?
東京都品川区二葉町
戦後できた会社と思われる。サブ・ミニュアチュア管を得意とし,1950年代半ばに電池管式ポケットラジオが流行。パームは,2G21(7極混合・3極発振),5687(5極増幅),1AJ5(2極検波・5極増幅),5672(5極電力増幅)という4球スーパー管の他,これらのフィラメントをSF化した2G21SF,5687SF,1AG5SF,512B(電圧増幅)などを作った。また,ラジオも自ら製造した。
◇シャープ/早川電機/早川金属工業/SHARP ... 日立,東芝
◇三洋電機/SANYO ... 東芝,NEC
◇ゼネラル(富士通)/八欧電機/GENERAL ... TEN