Antique Japanese Radios

 私のパソコンの歴史/My PC History

Writing by Dr. Koji HAYASHI

2003.8.14


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我が家にマックが来る前の話:

私が学生だった1970年代末。パソコンはまだマイコンと呼んでいました。趣味でボード・コンピュータをいじる人が現れ,新聞に載ったりする時代。我が国ではまだハードウェア中心でロジックの勉強をして基板を作るのが高級な趣味,魂はアセンブラーかベーシックしか無く,OSとアプリケーションの区別が無く混沌としておりました。そんなとき米国製の洗練されたデザインのスマートな製品が現れてビックリしたものでした。米国タンディラジオシャックのものとかアップルのものがありました。そのアップルがどうやらマック君につながるらしい。しかし,知る由もありませんでした。学校や会社でいろいろ導入を試みようとしていたのも,科学計算や制御用に応用できるのではないかと考えられていたからです。当時,科学計算といえば大型機のバッチ処理でしたが,現代では一家に数台のパソコンにも劣る性能でした。私はロジック系のハードウェアいじりは嫌いでしたので,自宅にマイコンを置くには無理がありました。強いて言えば,ようやく周波数カウンターのキットなどを買ってきて組み立てていたくらいです。

1980年に職につき,以来1987年までは,あいかわらず,オーディオ趣味,といっても単にカセットデッキ,トランジスタアンプ,シングルコーンスピーカを携えて,数少ないレコードを聞いていたに過ぎません。浅野勇氏の魅惑の真空管アンプや武末数馬氏のパワーアンプの著書の売れ残りを入手したのはその頃でした。せっせとラックスキットも作りました。1980年頃はまだマイコンは町中のインベーダゲーム等のゲーム機に応用され,また個人所有のパソコンもゲームばかりでした。そうこうするうちにパソコンは8ビットcpuのまま進化し,記憶媒体もカセット・テープからいよいよフロッピー・ディスケットやバブル・メモリーが現れました。CRT付きの廉価なパソコンを販売していたシャープは,NECやFijitsuが新作を発表すると苦戦に陥りました。このころはゲーム中心でした。

パソコンがやってきた:

8bit cpuのパソコンが実用になりだしたのは,応用分野が確立しだした1980年代前半。中身を知らないでも使える時代,価格も手の届く時代がやがて訪れました。職場では1980年代前半にはNECのPC8801を使って,ミニコンの端末にしていましたが,1980年代後半に入り16ビットパソコンによる日本語ワープロ時代が来ましたので,小型のNEC PC9801UV2に切り替えました。

自宅では仕事を持ち帰ることもあり,1987年頃に8bit cpuのワープロ機NECの文豪ミニ5Gを買いました。もっぱら,英文のwordをcpmで動かすために買ったもので,ほんの半年位使いました。そんな頃,突如我が家にパソコンがやってきました。NEC PC9801F2の中古機をひょんな事から入手し,グリーンモニターを合わせて購入,すぐに下取りにだして,EpsonのPC-286U (NEC PC-9801UV2互換機, cpuは16bitで8086互換のV30)へと切り替えました。1987年(S62年)10月に始まった我が家のパケット熱のはじまりです。そして,144MHzFMトランシーバ, TNC AX-25の導入からパケット通信を始めました。DOS2.11patch。文豪ミニ5Gも拡張ユニットを購入し,ソフトは通信用のものがパッケージとなっていて,ほんのちょっとアマチュア無線のパケット通信をやりました。グリーンモニターはNEC製でしたが,英文wordをやりだすと画面に色が付きコントラストを悪くして文字が見えなくなり,夜中に目をしばしばさせるようになって,結局三菱のカラーモニターに買い替えました。無線のTNCは3種類,電話モデム2400bpsを1種に拡充。アマチュア無線のパケット通信,チャット,そして電話BBSなどを楽しんだものです。当時のpc-286Uの主な用途は日本語ワープロや英文ワープロで職場のNECのNEC PC9801UV2との互換性に不自由は感じませんでした。

その後,アマチュア無線のパケット通信は直ぐに限界が見えて,QRP機の自作や50MHzでのQSOが楽しく,そちらへと興味は移っていきました。アマチュア無線のパケット通信は430MHzFMは残りましたが,50MHzFMや144MHzFMは消極的になり,HF用のTNC導入も試みましたが満足できず,最後に設備拡充は停止。やがて50MHzSSBの移動通信へと興味が移りました。職場ではPC9801RA(80386)に切替え,同様の仕事をしていました。アマチュア無線のQRP機器にも大層興味がわき,部品収集と自作を試みたのもこの頃です。

マックとの出会い:カルチャーショック

1980年代末に職場では1台のマックを導入,LCIIだったでしょうか。漢字トーク6。美しいフォントで英文テキストが印刷できるのには感心しました。そして1991年頃に私専用にQuadra 700 (cpu 68K(68040))がやってきました。英語のOS system7に日本語Patchという組み合わせで,後に漢字トーク7となりました。英文ワープロやお絵かきは重宝したものです。その後,ずっと資産を継承してきました。その頃,我が家では1992年(H4)4月に現住所に引越し,アンテナが消え失せるとともに,活動は停止。無線局は1992年(H4)10月に更新しましたが,電波は停止。もっぱら真空管AM機のレストアを始めました。やがて1995年(H7年)に子供が誕生,忙しくなり,放置している間に1997年(H9)9月に満了となり,失効しました。実はその頃,インターネットへの準備段階でした。職場でかいま見た世界のWebサイトは目を見張るものがありました。自宅ではせっせと真空管の原稿はPC-286Uで書き留めました。

PM4400/200

我が家に転機が訪れたのは職場で転勤を命じられた1997年のこと。PC使用環境の激変を恐れた私は自宅でマックを使えるようにその秋に買い求めました。ところが,残念なことに市場に出ているものはcpuが68040(68k)のものは希で,OSもアプリケーションソフトもPowerMacを指向していました。買い求めた物はPM4400/200はスタンダードです。しかし,自宅に持ち帰り旧来のソフトを動かしてみると,当初もくろんだ科学計算は68Kソフトが動かないことが分かりあえなく頓挫。完全に遊び用に化してしまいました。ちなみにPC-286Uはこの頃引退し,物置に行きました。

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